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KJ法勉強会振り返り勉強会
2022-12-16 @サイボウズラボ
ここまでの流れ
5月下旬 KJ法勉強会@ロフトワーク の企画スタート
2022-06-24 「渾沌をして語らしめる」勉強会@サイボウズラボ
2022-07-01 探検ネット(花火)勉強会@サイボウズラボ
先にサイボウズ社内で同じ講義資料を使って勉強会をした
2022-11-16 打ち合わせ 講義資料は30分のショートバージョンにすることにした
2022-12-13 KJ法の先にあるもの@サイボウズ
今回の目的
8月の勉強会時点から今までの4ヶ月間の間にだいぶ発展があった
その差分を振り返る

2022-12-02 開催当日
結構面白いことが起きた
事前課題は25枚ラベルを作ってくることと講義資料を読むことだけだった
が、当日朝見たら講義資料を見てやり方を知った人が20人くらいネット作りに着手していた
とても能動的、積極的でよい
Miroで全員の作業状態が共有されているのがポジティブに影響したか?
先延ばしにするメリットはないので朝の時点でのコメントをつけて回った
今振り返って考えると、これはとてもいい事例収集になった
個々人が事前に着手して、適当なところで切り上げている
なので、ワークショップの最中にリアルタイムで僕が見て回って観察するのに比べて「キリが良い状態」「つまずいている手が止まっている状態」のものが多い
講義
ワークショップ中は質問をSlackで受け付けてSlackで回答した
これもすごく良かった。
物理開催ではやりづらい45人並列ができた
リアルな場では手を挙げて質問するのに心理的抵抗ある
→Slackに書くのはそれほど周りの人から注目されないので心理的負担が少ない
(西尾の側は常時フル稼働なので負担が大きくはある)
デジタルデータなのでコメントが後から振り返れる
スクリーンショットを取って議論したことなども全部記録に残っている
とても良いリソースになった
物理の場で音声でやりとりすると周囲の人が手を止めて聞こうとしてしまったりする問題
チャットなのでそれも起こらなかった(たぶん)
Zoomで質疑+取りこぼしを後からSlackで回答

前期、中期、後期
川喜田二郎の考えは20年の間に変わっている
これは当然のこと
川喜田二郎は新しい経験から学んで考えをアップデートできる賢い人だった
考えが20年間変わらない方がよっぽどおかしい
しかし「考え方」は20年の間には当然変わるんだ、という「長いタイムスパン」の「変化していくダイナミックな世界観」があまり共有されていなかった
エポックになる三冊の本がおよそ10年間隔で出ている
前期 1967年「発想法」
中期 1977年「知の探検学」
後期 1988年「KJ法 渾沌をして語らしめる」
この三冊を「前期、中期、後期」と呼んだ
このことで川喜田二郎の考えが変化していくしていくことがイメージしやすくなったらしい
指し示すための名前がついたことでぼんやりとしていた世界が切り分けられたわけだ
前期はどうだったか
1967年「発想法」出版
まず膨大な定型的データがあるのが大前提
膨大な定性的データをどうやってまとめるか
定型的なデータを同質性で分類整理しても「まとまる」ことはない
異質なデータをどうやって総合していくのかが重要(p.53)
〜を考え、その方法論を提案した
西尾の講義ではこの時点のKJ法を明確に区別するために「はじまりのKJ法」と呼ぶことにした
中期では何が起きたか
1977年「知の探検学」出版
「KJ法がボトルネックだと思ってたんだけどボトルネックはKJ法じゃなくて手前の取材フェーズだった」的なことを言い出す(p.28)
そもそも集めたデータの質が悪いとKJ法の結果の質も悪い(p.29)
たがらKJ法の手前の取材フェーズの改善が必要だと主張
KJ法的発想を応用して探検ネットが作られる
後期ではどうなるか
1988年「KJ法 渾沌をして語らしめる」
データのない状態から開始する「考える花火」の考え方がハッキリしてくる
「探検ネット・花火」を「KJ法の双子の弟」「KJ法の実務化」と位置付ける
この流れをざっくり俯瞰して比較するとどういうことか
前期: 大量の情報が既にある「はじまりのKJ法」
中期: 情報を集める方法にフォーカス
後期: 自分が新しい情報を生み出す「考える花火」
前期は大量の情報が既にあるのが大前提だった
ところが現実に実際いろんな人に教えてみたら「大量の情報がある前提」がそもそも正しくない
中期には「まず情報を集める必要があるよね」となっていく
その情報を集める過程で最初に何が必要か
まずしっかり内部探検して、何が問題だと思うのか、何がどうなって欲しいのか、そのために何をすると良いと思うのか、言葉にする
自分が新しい情報を生み出すところが必要なんだということになっていくわけです
振り返って考えてみると「はじまりのKJ法」の「たくさんのデータをどうまとめるのか」というフェーズにおいても「自分が新しい情報を生み出す」が行われていた
まとめようとしてまとまらず(発想法p.54)、そのあとで「まとめる時にも自分が生み出すことが重要だ」と川喜田二郎は気づいた
この気づきが後にKJ法と呼ばれる体系になっていく
つまり「まとめる」は、実は「発想する」と密接に結合している
だから「まとめる方法」を考えた結果が「発想法」という名前で出版され「発想をうながすKJ法」という章立てで解説されてるわけだ

nishioここまでで質問ありますか
human後期の「自分が新しい情報を生み出す」は移動大学とかフィールドワークとかの場面ではどう使われている?
nishio中期の川喜田二郎の概念に当てはめるならば「取材を始める前に内部探検が必要だ」と言っていますね
自分がまず自分の心の中を探検して「何を今後取材する必要があるのか」を明確にしていくフェーズがある
それが考える花火になっていった感じです
human分かりました ありがとうございます
human前期中期後期というのは「シチュエーションが違う場面にフォーカスしてる、それぞれいい方法だ」という話なのか「進化していったものだから、後期の『考える花火』をやった方がいい」なのか、西尾さんはどういうイメージですか
nishio前者です
前期の川喜田二郎は自分がうまく取材できて、自分がインタビューで集めたデータがすでにあるもんだから、世の中の人がデータを集める方法のところでつまづくということを理解していなかったわけです
自分が経験してないんだからわからないよね
だから自分が「集めた後のデータ」に対して行ったことを「発想法」という本にしてリリースした
その後10年くらいの間に川喜田二郎は「このKJ法を教えてくださいよ」といろんな人に言われて教える経験をしていく
そしたら「そもそもデータがあかんやん」「そっか、ここでつまずく人が多いのか」と気づいた
それで中期に「知の探検学」で「データを集めるところをもっとうまくやる必要があるよね」という話になる
川喜田二郎が新しい経験をした結果川喜田二郎の考えが発展した
なので「前期と同じようなシチュエーションであれば、もちろん前期と同じ方法を使い続けていい」と思います
シチュエーションがいろいろあることに川喜田二郎が気づいていったという感じ
humanなるほど、ということは探検ネットみたいな方法で取材の部分がうまく行ったら、その後「はじまりのKJ法」でまとめて発想を生み出すといい
nishioそうそう、そういうイメージです
別の切り口から説明すると
前期のやり方「はじまりのKJ法」をやるための必要条件に川喜田二郎は気づいていなかった
KJ法を教えてるうちによい取材が必要だと分かった
だから中期に探検ネットを作った
その探検ネットをうまく回すための必要条件に川喜田二郎は気づいていなかった
探検ネットを教えてるうちに、
「探検してデータを集めてネットを作る」の手前に
「何をやっていくか」を考えるフェーズをちゃんとやる必要があるな、となった
それって要するに前期中期の言葉で言えば「内部探検」と呼んでいたものに相当する
それを具体的な方法論として「真ん中にテーマを書いて周囲に自分の考えを書いて配置していく」という形に整理したのが「考える花火」
という感じで徐々にプロセスの流れの中で手前の方に手前の方に移っていっている
Xをやる前にまずYをやる必要がある、と前提条件に気づいて。
humanなるほどよくわかりましたありがとうございます


データをして語らしめる
>「たくさんの外から与えられたデータをどうまとめるのか」というフェーズにおいても「自分が新しい情報を生み出す」が重要
この考えと、キャッチフレーズとしてよく使われる「データをして語らしめる」との間で不整合を起こす人がいる
その原因は「データ」を「客観的に正しいもの」と暗黙に仮定していることにある
データ」についての大前提
そもそも川喜田二郎は「すべてのデータはうそである」と考えていた
> すべてのデータはうそである。うそと承知でデータを使う。 しかもそこから、より正しい真実を割りだす。それが判断への道なのである。しかし、うそからどうしてまことが割りだせるのだろう。それは、見方を変えると、どのデータにもまた、多少ともに真実の面影が宿っているからなのである。(KJ法 渾沌をして語らしめるp.71)
川喜田二郎が「データ」と呼んでいるものは
多種多様なことを観察し記録したもの
「客観的に正しい事実」ではない
(同書p.71)
川喜田二郎はデータをそう捉えていた、これを踏まえて、
「KJ法をしている最中で思いついた自分の考えを追加していいのか?」という質問に答える
思いついたことは有益である可能性がある
有益だと後からわかる可能性がある
頭の中だけに留めておいて消えてしまうのはもったいない
だから、まず記録するべき
これはKJ法をするしないに関わらず、知的生産の大原則だと思う
次に、その記録したものについて
これは何か?
これは「自分の思考を観察して記録したもの」なので、当然「データ」である
このデータを今すぐ混ぜるかどうかはどちらでもいい
すぐ混ぜてもいい
傍に置いといて、まずは外から来たデータの整理に専念するのでもいい
以前「マークなどをつけて区別するのか?」という質問があった
区別してもよいし、区別しなくてもいい、自分の目的に合った方をやればいい
考える花火で「自分が次に何をするか決める」的な時にはあんまり区別の必要はないよね
「自分の意見と収集したデータを分けてレポートをまとめる」的なときには区別したい人もいると思う
とはいえ今の時代、収集したデータがデジタルなら検索すればどこ由来かはすぐわかるわけだし、人間がラベルに印をつけて区別を頑張る必要性は少ないと思う
データだけから有益な結論を導き出せるなら、それがベスト
それがまず目指すべきこと
ところが多くの場合、データだけでは結論まで至らない
結論にたどり着く前につまづく
「情報が溢れててゴチャゴチャだ、どう整理したらいいんだ」となる
KJ法を作る前の川喜田二郎がこれに悩んだという話が「発想法」p.52に書いてある
このときに「どうしたらいいんだろう…」とぼんやりしてても生産的でない
何も先に進まない
もっと悪いのは「整理できたところと、できてないゴチャゴチャがある。整理できたところだけ使おう
これがめちゃくちゃ悪い
なんでか
早く整理されたところは、既存の考え方、既存の思考の枠にマッチしてたところ
既に持っている考え方の枠組みにパパパパッと当てはめていったからスピーディに整理できただけ
そこだけ使って、うまく整理できなかったゴチャゴチャを捨てるのは、既存の考え方の枠組みを再生産しただけ
新しいものが生まれない
その捨てられた部分にこそ発見すべき新しい発想の種があったはず
なのに既存の認識、既存の思考の枠を支持するデータだけ拾って使って
発想のを無意識に踏み潰してしまう
こういうときに「あっ、これ今まで無関係だと思ってたけど、こういう視点で見ればつながるぞ!」のような気づきが有用
気づき=発想
思い込みとは違うところが繋がるっていう発見
これは思い込みの枠組みを壊す
新しい情報の創造
整理をしていく上での助けになる
既存の枠組みへのとらわれを減らすから
この新しい「気づき=発想」はデータを眺めていた個人の「中から出てきた」もの
「このデータとこのデータは関係あるんじゃないかな」は個人の心の中からでた主観的な感想
なので、「外から与えられたデータ」だけ見て整理しようとしてる人は「入れていいの?」となる
外から来たデータも、中から出たデータも「川喜田二郎すべてのデータはうそである
>うそと承知でデータを使う。 しかもそこから、より正しい真実を割りだす。それが判断への道なのである。
「嘘と承知で」=「客観的な根拠がない自分の仮説に過ぎないと承知の上で」使えばいい
こうやって作り出した「判断」が正しいのかどうかどうやってわかる?
その後の行動によって検証される
たとえば
実験をするとか、
裏付けのための取材に出かけるとか、
仮説に基づいた行動の結果を見るとか
によって事後的に正しさが検証される
机の上で考えて解決することではない
自分で判断をするのが大事
その「判断」を作り出す上で
自分が「これとこれが関係あるんじゃないか」と思ったという現象
この現象を観察し記録してデータにし、追加し
それこそ新しく発見した、重要なものとして扱っていく
それよって判断にたどり着く
どうやってまとめたらいいんだろうなと思って机の前でぼんやりしている生産的でない時間を少なくして、判断して、決断して、どんどん先に進んでいく
そういうことをやっていくのが良いでしょうというのが川喜田二郎の一仕事の達成が人もチームも育てるの内容
関連
エンジニアの知的生産術p.47で紹介したアインシュタインの考え方
公理は経験から直感によって生み出され、
その後で論理的に具体的な主張が導かれ、
その具体的な主張が経験によって検証される、と考えた

既存の思い込みの枠を壊す
今回、各個人のワークがデジタルな形でコピーできたので事例に基づいた解説がすごくやりやすくなった
川喜田二郎がKJ法の説明をする上で色々な表現で批判してるバッドパターン
思い込みの枠壊さないといけない」とか
既存の構造へのあてはめをしてはいけない」とか
いろんな言葉で何度も表現してる概念がある
>...グループ分けについての独断的な原理をあらかじめ頭の中にもっている...その独断的な分類のワクぐみを適用し、そのできあいのワクの中にたんに紙きれの資料をふるい分けて、はめこんでいるにすぎないのである。これでは KJ法の発想的意義はまったく死んでしまう。
トップダウンにやっていく方法は、あらかじめ頭の中に枠組みがあって、その枠組みに紙きれの資料をふるい分けて、はめこんでいるだけ
図のここの話をしている:
前期の時点で言ってる、20年ずっと言ってる
しかし実際にKJ法をやってみてくださいってやるとこのやり方をやっちゃう人が多い
なぜ伝わらないのか?
川喜田二郎は「こういうのは良くない、してはいけない」と否定形の指示を使いがち
「分類してはいけない」とか「トップダウンは良くない」とか
その結果「ダメって言われたけど、じゃあどうしたらいいの?」となってしまう人が多い
こういう形にしてしまう人がいっぱいいるのは観測事実
だから
「この形は良くない」という気づくこと
「抜け出すためにはどうすればいいか」のアドバイス
をセットで伝えていくのが良いと思う
事例4
何が悪いのか
「家族>娘>長女」という「階層構造」が強く表現されている
グループの境界線まで引いてしまっている
これは「当たり前な構造」をあらかじめ表現してしまっている
ここから新しい面白いものが生まれることはレア
なぜか?
既存の構造の境界線が新しい構造の発見を妨げる
この「長女」の丸で表現された境界線が新しい関連の発見の邪魔になる
新しい構造が発見されるタイミングではそれは弱々しいので、強い既存構造があると負けてしまう
既存の構造が解体されていく必要がある
アドバイス
この「大きな丸」で表現されているものは「元から持っていたグループ」
これの「境界」は妨げになってる
「これって頭の中に元からあった概念ですよね」
一旦外そう
境界に邪魔されて見えにくくなっている「既存のグループを跨ぐ関係性」を見つけることに注力すると良さそう
消すことに恐れがあるならコピーしたらいい
human頭の中に「長女」というラベルがあって付箋を集めた感じ
nishioそう、これがバッドパターンだよという話も最近書いた: グループ編成のバッドパターン
事例8
こちらはグループ境界は引かれてないが、ラベルが無味乾燥
「花」「夕日」などの末端のラベルが、現状では「抽象度の高すぎる概念」になっている
具体的なイメージが切り捨てられている
花と夕日、並べて置いてあるのであれば本来その間に何らかの関係がある
この2枚の関係は何かというのが2枚のラベルを見て記述できてほしい
だけれども花と夕日という抽象的な概念になってしまっているから関連を見出すことができない
それぞれが十分に具体的なイメージになるとつながりを見出すチャンスができる
例えば「散っていく桜」と「夕日の差す寒々とした草原」なら「物悲しさ」でつながりうる
別の表現
ラベルが「掘り下げ」られてない、地に足のついていない浮き草のような状態になっている
根っこがなくなっちゃってる
そうではなくて自分の体験とか感覚とか主観とかにしっかりと自分ごととして根差している必要がある
ついついザクッと根っこ切って抽象的な概念にしてしまう
無意識に良いと思って切っちゃう人がいる
根っこを切るのは最小限にしないと枯れてしまう
川喜田二郎の言葉だと「できるだけもとの資料の土の香りを残せ
>...単に文字記号面だけの意味だけでなく、その意味の中心を取り巻いて、その周囲にモヤモヤと連想的雰囲気をたたえている...「けっして抽象化しすぎるな」、「堅くるしい熟語や術語にこだわるな」...「できるだけもとの資料の土の香りを残せ」...最少必要限度の「概念化過程」が大切なのであって、不必要に「概念」にまで仕上げてはならないのである。
発想法 P.141 see 抽象化しすぎるな
文字の記号面の意味だけではなくてその文字の意味の中心を取り巻いてその周辺にもやもやと連想的雰囲気がある状態が重要なんだ
決して抽象化しすぎてはいけない
堅苦しい熟語や熟語にしてしまうのではなく元の資料の土の香りを残す必要がある
概念化は必要最小限にとどめるべきであってどんどん概念化してしまってはいけない
アドバイス
>一単語のラベルに関しては「〜とは具体的にはどのようなものか」「例えば何か?」などと自問して、もっと情報を増やし、ラベルに加筆するか新しいラベルを追加するとネットにしやすくなりますよ
これはエンジニアの知的生産術p.197 に書いたシンボリックモデリング基本5質問((6.2.4.2) Clean LanguageとSymbolic Modelling)
僕がマンツーマンで教えてる時なら、僕が質問役をする
「この『花』はどのような『花』ですか?」
「〜〜な花です」
「じゃあ、それを付箋に書いてください」
humanプレバトの俳句コーナーで夏井先生に「それを書きなさいよ!」と怒られているところを思い出した
この質問によって「掘り下げ」「具体的イメージ」を引き出す
今は抽象的な花とか月みたいな抽象的な概念になってるものが「きちんと自分の身体感覚に結びついた」(ちゃんと主観した)ものにしていく

nishioここまでで何か質問あるでしょうか
humanあんまり本質じゃないんですけどこれワークのテーマって何だったんですか
nishioワークのテーマは自由にという感じです
human発想技法ってテーマの設定で出てくるラベルの具体性が結構変わってくるんでテーマの設定の仕方も肝のような気がしたので気になった
nishioそうですね正確に言うと今回は「正解が自分の中にありそうなものをやってください」「正解を得るために外に探しに行かなきゃいけないものではなく」って言ったんです
human超難しいww
nishio改善の余地がある
例えば「自分が面白いと思うことを集めてください」という選択肢もあったかなという気はする (面白いのKJ法, 「面白い」の探検ネット)
確かにテーマの設定は改善の余地があったと思う、テーマ設定の影響でラベルの質が落ちて、それでつまずいてる人はいそう
自由…
「正しいやり方(作法)がある」みたいな感じで凝り固まってた人が多かったので
そうじゃないよ「もっと自由に自分が考えたいことに対して使っていいんだよ」って言って考えたいことを持って来てもらったが…
human「正解がありそうなもの」っていう設定にした狙いは?
nishio「正解がありそうなもの」ではなくて「正解が自分の中にありそうなもの」
「正解が自分ではないところで決まっているもの」をテーマとして持ってこられても、ここで考えてないで現地に観察しに行こうよとなってしまう
自分の心の中をよく観察していく意識の方向性にならない
外を見てしまう
human中を見て欲しくて自分の中に答えがありそうなものをやっていく?
nishioそう。もうちょっと具体的に「自分の中をよく観察していくことによって答えに近づきそうな気配があるもの」とか言えばよかったのかもしれない
human難しい!
human私が見たKJ法の事例では「自分にとって価値のあるものは何ですか」というテーマでやっていた
nishioなるほど
やっぱり「自分にとっての価値」とか
自分にとって何が面白いと感じるか」とか
そういうことをもっと明示的に言ったほうがよかったのかもしれないですね
「観察」って真ん中に置かれてしまったのを見て「ああっ(>_<)」ってなっちゃった
このテーマを設定する段階で既に抽象的な考え方になってる
具体的なことではなく「よし観察についてKJ法しよう」というテーマの設定には「いや随分と根っこがない話してますね」と感じる
他の人の例だと「もうすぐアニバーサリー休暇があるけど何をしようか」みたいなテーマの人がいて、それは具体的でよいテーマだったと思う
自分は何がしたいのか」だからね
後は「自分はどう生きていくのか」について深く考えてる人もいた
それはテーマの内容自体にも興味深さを感じたんだけど今回に関しては「形」にフォーカスしてコメントしてて、具体的なテーマの内容の議論には深入りしない方がいいなと思ってあんまり深くは掘ってない
(補足: マンツーマンとか少人数の場合には「グループの内容を口頭で説明してみる」の聞き役に僕がなった上でクリーンな質問をすることはあります。「KJ法を教える」時には僕が意見を言うことはないですが、望ましくない妥協が発生しない人間関係があれば意見をぶつけあってもいいかもね)
humanそういう自由度があっていろんなテーマが設定されるのは面白いなと思いました
nishioこの事例8の彼には悪いけど「テーマを完全に自由にすると、テーマ設定の段階でこける人がいる」という観測事実が得られて、学びがあった
僕がもう少しテーマの範囲を制限したり、方向性を示したりする必要があった
追記: この質疑の会話を整理してて気づいたんだけど「よい」と感じているテーマが全部「自分は」「自分にとって」を含んでいた。「自分ごと」が重要な方向性っぽい


事前の思い込みのグループとそれをまたぐ線
KJ法が「気づき」「発想」を生み出すことに関して
経験してる人は「当然そうだよね」ってなる
経験してない人は「何を言ってるのかよく分かんないよ」ってなる
「気づき」が具体的にどういうものであるのかの言語化がされていなかった
今回、わかりやすい具体例ができた
「今は遠くに置かれているけど、これは関係のあるもの」という気づき
今回「探検ネット」由来で「線を引く」という行動が追加された
これによって「離れたところに置いたラベル」の間に線が引かれるケースが頻発した
これが「気づき」
線が引かれる前には「この2つは無関係なものだ」と思っていた
だから離れたところに置いた
しかし事後的に「この2つには関係がありそう」と思った
だから線が引かれた
この線が引かれたタイミングが「気づき」のタイミング
線のないKJ法ではこのような時にどうするか?
その「気づき」を表現する方法が「近くに動かす」だった
それによって「気づく前の」「思い込みの枠」が破壊され、新しい構造が浮かび上がってくる
ところがこの「破壊を伴う移動」に心理的抵抗を感じてしまいがち
「客観的に正しい」「既知の構造」「階層的整理」を優先してしまう
自分の主観的な「これとこれは関係しそう」という気持ちを無視・軽視してしまう
でもその気持ちの方が重要
実際のデータを見る前に心の中に持っていた脳内の構造
こういう形になっているだろうという思い込み
これはデータを見ていないわけです
データを見る前に思っていたことなわけ
データを見る「前」の構造とデータを見た「後」にこれとこれ関係あるって気づいたもの
後者の気づきの方が当然重要である
っていう価値観の変換が必要

川喜田二郎のオリジナルの探検ネットではどうか
任意の長さの線を引けるデジタルツールを使っていなかった
関係を「クリップ」で表現していた
その結果、関係のあるものは近くに置くしかなかった
今回Miroというデジタルツールを使うことによって遠くにおいたまま線が引けるようになった
遠くにあるものでも心理的抵抗なく「関係ありそう」を表現できる
これは良いこと
ハードルが下がった
「言葉として言語化できていないけれども関係がありそうだと思った」という情報を記録できる
アウトプットして、心の外に出して、消えない状態にすることができる
その反面「遠くに置いたまま」ができてしまうようになった
デジタルツールの自由度が高いことで悪い表現もできるようになった
線がいっぱい引かれて、交差しまくってぐちゃぐちゃになって「どうしたらいいんだ」みたいな感じになってる人がいた
クリップで表現していた時にはそんな交差はできなかった
後から引かれた線の方が「新しく気づいたこと」なので大事
線を短くするようにラベルを動かしていくと良い
(川喜田二郎は大規模に動かすことに反対している。ここは西尾と考えの食い違うところで、この食い違いが何から生まれているのかは今後明らかになるだろう。民族大移動への反対、今後書く)
破壊の不安に対しては「コピーして取っておけば良い」でケアできる
今のごちゃごちゃの状態のものは一旦コピーして脇におく(戻りたければ戻れる)
線を短くするように変形する
複数人の人から出てきた不安の声
「『これとこれが繋がるんじゃないか』と思ったんだけど、その思った気持ちで整理しちゃっていいんですか」
いい
むしろそれが目的でやっている
「繋がるんじゃないか」これが気づき
それを繋げて近づけていくことで、後から「なぜ繋がるのか」が言葉になる
>「同質性」に着眼してグループ分けをやったところで「まとまる」わけではない
> 異質なデータの組み合わせから新しい関連性を発見することが必要なケースがある
> 異質なデータをまとめる=同じグループに入ってないものの組み合わせ

nishioここまでで何か質問ある人いるでしょうか
humanこの「構造を壊す」って、線を引くまでは人間がやって、線を引いたらシステムが構造を壊してあげるような形もできるんじゃないかな
nishioこの線が引いてある状態から例えばバネモデルで整形するとかは技術的には可能
human壊してあげたら、そこから「こういう構造があるんだ」と人間の新しい構造の発見につながったりしそう
nishioそうですよね確かに
実はバネモデルでの自動整形も試したことがあって、なんで今やってないかというと「人間が配置をしている最中に自動整形で位置を動かされるとイラつくから」なんです
人間が「まだ言葉になってないものを配置によって表現」してる時にシステムによって動かされるのは「作ってる最中の破壊」なのでイラつく
humanなるほど
nishio今この議論をして「今のバージョンをバックアップで取っておいて、戻れるようにした上で」だったら、機械が配置を変えるのもありだなって思いました
こういう全部がつながってる状態になった後でこれをバネモデルで整形するのはそれほど難しくなくて
実はKozanebaに既にバネモデルで整形するコードが入ってて、メニューがdisableされてるだけ
human見てみたい
nishioこのケースの緑のやつは右に持っていけば交差しない綺麗な形に整形し直すことができると僕には見えていて、それをしたい気持ちになる

となる三つ並んでるここのところに何が発生するのかすごい気になります



humanバネモデルってのは物理的なバネの話ですか
nishio線で繋がってるものの間に近づける力を発生させて、この個別のブロックに対して反発する力をかける
物理シミュレーション的に繰り返し計算をするとバネがビヨーンとなるみたいな形で綺麗な整形がされる

human最初に付箋を置くときってのは出しながら置くから、その最初の付箋の位置を決めるって感じですかね?
nishioそれは難しい質問で…
human一回線を引いて作るじゃないですか、その後で線を全部取ってシャッフルしてもう一回作ると別の軸で見えたりしないのかな
nishioシャッフルしてもう一度やるのは人間の心が多分辛いですよ
humanあー辛い
nishioたとえそれが良くない構造になってたとしても「これを全部ぶち壊して、もう一度ゼロから組み立てをやり直しましょう」は辛いと思う
賽の河原で子供が石を積んで鬼がやってきて崩す話と同じ
でもね、川喜田二郎の本を見るとそれをやっていて、今だったらパワハラで訴えられるんじゃないかと思うんですけどw
human壊されちゃうんですね
nishio「こんなことをやっていては全然ダメだと言ってラベルをぐちゃぐちゃにかきまわしてやったんだ」みたいな感じのことを誇らしげに書いててw
human酷いw
nishio「悲しそうな顔をして眺めていた」みたいな感じのことを書いてたけども、今の時代だとダメじゃない、それ、みたいなw
追記: 話した後確認したら、このエピソードはグループ編成の失敗事例にあった。少しオーバーに話してしまった
human自分だったらどうするか、寝かせて忘れたころにもう一回やり直すかな
nishio忘れたてから前の行動を一旦消すなりぼやかすなり薄くするなりした上で改めてやり直すのは良い学びがあるかもしれないです
その「寝かせる」に関しても話がある
ある時点でまとまらないなってなったものを寝かしておいても全然いいんです
寝かしておいて、例えば一週間そのことを忘れて別の仕事をした上で戻ってきたりする
すると一旦リセットされた頭の状態と新しくインプットされた知識がある状態でネットを見たときに
「あっ、こことここが繋がるじゃん」とか
「最近やってた別の仕事でみたアレがこのラベルに繋がるじゃん」とか
ラベルが追加される、線が追加されるということが起きるんですね
そうやって「表現された気づき」がだんだん増えていくとだんだん形が見えるようになっていく
なのでネットを一週間寝かせてもう一回見るというのは結構有益なことだと思います
humanなるほど、それは実感としてわかる
nishio僕は講義をして1年後にまた似た内容で話してくださいと言われて、講義資料を再利用して別の講義資料を作ってみたいな感じのことをやってきた
1年寝かせた講義資料をもう一回断片にして、新しい情報を加わえて、再構築して、みたいな感じのことをやっていくのは結構有益だなという実感があります
humanそれは共感しますね自分もそうです
大事なことだけ覚えていて詳細は忘れるんでいい感じなんです
nishio例えば文章の形で詳細に残してあるものをしっかり再利用しようとすると、それを読んでいる時点で「読む前の自分」の持っていたものがワイプアウトしてしまう
付箋の連想ネットワークが繋がっているくらいのラフな情報から再構成する方がより好ましい感じがある
human再構成で言えばそうかもしれませんね
nishioあとは最初の質問の最初に付箋を置くときってのは出しながら置くに関して、ラベルを順次置いていくのかどうかに関してはやり方が二通りがある
今回本当にやりたかったことは「真ん中にテーマのラベルだけあってそこから連想したものを追加していく」だった
しかし、それやると時間が足りなくなるんじゃないかなと思った
それで「事前にラベル25枚書いてください」っていうアドバイスをしてしまった
そのせいで混乱が発生した感じがあった
もし2回目やるんだったら
真ん中のラベルにテーマを書く
下記の手順で25枚ラベルを用意する:
置かれているラベルからの連想でラベルをつくる
連想元と線を引いて置いていく
全部が繋がっている形を保つこと
みたいにやるといいのかなと思います
human元々は考える花火的なやつをやりたかった?
nishioそうです
本当の「考える花火」は真ん中にテーマがあってゼロから連想で増やしていく感じ
だけど人によってはそこのフェーズに時間かかりそうじゃないですか
humanそうですね出てこないとね
nishio悩んで手が止まってしまう人とか、30分掛けて10枚しか書いてませんみたいな人とかが発生するわけなんですよ
で、そうなってしまうと後のフェーズできないわけなんです、10枚しかないとか言われると。
時間の限られたワークショップではリスクがめちゃくちゃ高いわけなんですよね
humanなるほど
nishioそうなってしまうのが怖かったので「事前に25枚用意してください」と言った
事前にワークした人を観察すると「真ん中のテーマに線が繋がってなくて、テーマを真ん中に置いたまま周りで今まで慣れたKJ法をやってた人」がいっぱいいたので、もうちょっと良いガイダンスの仕方があったかもなぁって思った
humanなるほど

自転車のたとえ
「言葉で教わるものではない」
「安全な環境で繰り返し練習することによって獲得するスキル」
「正解かどうかではなく、自転車が前に進むかどうかが大事」
このメタファーが講義資料の作り直しの過程でさらに発展した
前に進む」とは「今まで自分が気づいていなかったことに気づく
自転車のスタンドを立てたままペダルを漕いでも前には進まない
格好だけは「自転車に乗っている」っぽいけど、全然違う
それをいくらやっても自転車に乗れるようにはならない
実はペダルだけでなくハンドル操作が大事だから(後述)
二人乗りのたとえ
先輩と後輩がいて権威勾配があるとうまくいかないのはなぜか
二人乗りのようなものだから
先輩がハンドルを握って先輩がペダルを漕いでる
二人乗りをたくさんしても後輩は自転車に乗れるようにはならない
自分でハンドルを握ってペダルを漕がないといけない
「自分がハンドルを握る」=どういう方向に進むかの意思決定を自分で行う
「自分がペダルを漕ぐ」=先に進むためのエネルギーを自分が出す
ろくに考えずに体裁をサッサと整える「速い人」の問題
自転車のスタンドを立てたままペダルをブンブン回してるようなもの
負荷が掛かってないから速く回せてるだけ(歯車のたとえ)
それをやっても前には進まない、新しい気づきは得られない
終わってから言語化されたこと
「ハンドル」「意思決定」は、川喜田二郎の言うところの「判断」に相当する
この「一仕事」とは:
上司からこれをやれと言われてやらされる「作業」ではなく
自分で何をどうやれば良い果実が得られるのか判断して実行すること
その果実を味わうことで、自分の「判断力」に自信が持てるようになっていく
このプロセスが大事
つまりこれって「正解が外から与えてもらえない状況」での「意思決定」
「こうやればよい」が与えられない
与えられた方針通りに動くことに慣れた人は不安を感じる
外から集めてきたデータをまとめようとしたとき
それを「どうまとめるのが正解か」の正解は外から与えられない
正解が既知なら「データを集めて判断する」などというコストのかかるプロセスをやる意味がない
正解が未知だからやる、これが大前提
正解が外から与えられないから自分が作る必要がある
データだけから組み立てられることを十分頑張ったとしても進めなくなったら、そこから先に進むためには自分が意思決定して先に進む必要がある
ハンドルを握って「よし自分はこっちに進むぞ」と意思決定した上で、ペダルを自分で踏んで進んでいく
こんな感じで「自転車のメタファー」がとてもマチュアになった
シンボリックモデリングでは「シンボルが発展した」という
この「自転車」というメタファーはシンボル空間の中のシンボルである
シンボルが発展してシンボルスペースがより詳細に記述されるようになった
それが起きたということをここに記録しておきました

nishio質問あるでしょうか
human自転車の例えで「安全なところで練習」という言い方があった
今ちょうど若者が論文を書くのを手伝っていが、安全な場所なのか疑問
この論文の解きたい問題は何かとか貢献は何かみたいなストーリーを自分で作る文書化する主張していく必要がある
時間がないと、ペダルを先生が漕いじゃう
本人のためにならないなとか思いながら、でも締め切りあるしみたいな
やっぱり時間の制約がないところでやらないとダメですか
nishio「時間内にゴールにたどり着かないといけない」というプレッシャーがある状態は「安全な環境」ではないと思っています
humanですよね
nishio「自転車の練習」は「公園をぐるぐる好きなだけ走って回ってる」ような感じ
目的地に向かって行くことじゃないと思う
humanうんうん
nishio漕いで前に進むことだけに注力している、進んだ結果「ゴールに到達しなければならない」という制約がない状況、っていうのが「安全な環境」だと思っている
nishioあと車が来てはねられたりしない
何との比較かというと「実際のクライアントから受けた仕事にアサインされてOJTでKJ法を学ぶ」は「安全な環境じゃない」ということ
クライアントがいて、時間のリミットがあって、決められた時間までに形にして出さない、出したものの質が悪かったらクライアントや先輩に怒られるかもしれない、しかし「何が正解か」は与えられない
これは不安になって当然な環境
その環境に置かれて自転車に乗れるようになった人もいるが、生存者バイアス
余談: 僕の祖父が僕の母が子供の時にスケートを教えたときは、手を引いてスケートリンクの真ん中まで連れて行って、そこで放置して来たらしいんだけどw
今回のテーマも「仕事のテーマじゃない」っていうのが大事
やった結果がうまくいこうがうまくいかなかろうが仕事には影響はない
そういう気楽なもので練習しなければ、難しいものでやることはできない
子供が粘土遊びするみたいな感じ
「粘土をこねて適当なものを作って遊ぶ」の経験なしに、
いきなり商品として売るための壺や焼き物を作ることができるか
できないよね、まず手前に気楽な遊びのフェーズが必要だよね
みたいな感じのことをプッシュしていきたかった
humanうんうん、共感します
nishioとはいえ「今からそれをやる時間ないよ」ってシチュエーションでどうするのかは難しい問題だと思う
学生さんが学生さんである以上、論文の締切があることに対してはしょうがない
締め切りより前のところで、どう遊ばせるのかが大事かなって思いました
humanなるほど

時間が余ったら話す(予定)

(時間が少なかったのでこのページの一部だけ話した)
2018年、エンジニアの知的生産術を書いた時に「この知的生産術にKJ法みたいに名前をつけないの?」と聞かれた
「名前はつけません」って言った
執筆時点から名前をつけることを意図的に避けていた
なぜか
この原稿を書いていたのは2017年
「紙の方法も有用だが、問題点がいくつもある、電子化が必要だ」と考えて書籍に書いた
デジタルのツールで僕が満足するものはまだなかった
執筆が終わってからデジタルツールの開発に入った
それが今のかんがえをまとめるデジタル文房具Kozanebaにつながっていった
書いていた時点は「現時点の方法が完成版ではない」という気持ちがあったのだな、と振り返ってみて思う
「我流を作っていきましょう」「我流の情報を交換していくといいですよ」って話をした
>Q: 我流に名前をつけると流通・交換しやすかったりするかも?
という質問があって「その通りだ」と思った
なぜか
>組織内で共有するための共通言語を作ることにも意味がありますが、まずはその前段階として自分の手法にこっそりと個人的な名前をつけるといいかも(私的な言葉)
>名前のついていない概念は液体のようなもので、とらえどころなく、操作することが難しい
>概念に名前をつけることで、マグカップに入ったコーヒーのように、取っ手を持って操作することができるようになる(液体が容器に入っているメタファー)
共通言語を作るよりも手前の段階としてまず自分の手法に個人的な名前をつける
それは名前のついていない概念よりも操作することが容易になる
概念を名前につけることによってその概念が「液体が容器に入っている」みたいな感じに取っ手を持って操作することができる、扱える対象物に変わるんだよ
2018年の判断と比較する
「名前をつけて本に書く」は「世界で共有される共通言語」を作ることに相当する
2018年の判断「名前をつける段階ではない」 は「共通言語化する段階ではない」
前段階として「私的な名前」をつけることは有益
というわけで西尾の我流に仮の名前をつけてみた

これは文字通り発表ストーリーを作るときに使っている方法
KJ法とこざね法の合体したような方法
話の断片が付箋になっていて関連する付箋つながって語られる
付箋を近接したり線でつないだりしていく
この順番で話そうって確定したものは近接させてグループ化して一塊にする
これはKozanebaだと畳んでおくこともできる
やっぱやめようと思ったらグループ解除すればいい
「こう話そう」ってなったものをくっつけて固める作業はこざね法のホチキス止めに相当する
こざね法では「話の流れはこうだな」と思ったらホチキスで止めて一塊にする
大雑把に左上スタート右下ゴールという感じ
例えば自己紹介の付箋は左上に置かれる
講義の後にグループワークがあるなら、その進め方の解説は右下の方に行く
残りの大部分の付箋は線とかに引っ張られて配置が決まっていく

human真ん中から始めないのはなんでなんですか
ロフトワークさんのやつでは真ん中から始まってたような気がするんですけど
nishioゼロから講義資料を作るときには考える花火みたいに真ん中にテーマを置いて発散フェーズをやることもあります
一方でこの方法が真価を発揮するのは材料がすでにあるときなんですよね
過去の発表資料があってその構造を変えなきゃいけないとか
「すでに書き出された文章や発表資料」には「前後の隣接関係」がある
すでに素材とその素材の間の接続が表現されている状態にある
これを再利用したいというときに使っている
なのでだいたいの場合は素材がすでにある
humanだいたいこんな順番で話すみたいな大枠は決まっていて左上から右下に伸ばすことができる?
nishio大枠決まっているけど変える必要がある状況ですね
制約条件、例えば発表時間や聴衆の前提知識が変わったとき
実例
1時間の予定で作ったKJ法勉強会@ロフトワーク_講義資料v1を30分の予定のKJ法勉強会@ロフトワーク_講義資料v2に変換するプロセス
これはもともとあったKJ法の1時間バージョンの講義資料を30分でやりましょうってなったときに「えー、どこを削ろうかな」と並べて配置を変えてってやっていった
例えば自己紹介のところがもともとのスライドではこれくらいあったんだけど

こんなにたくさんはいらないなって言って束ねて小さくしてあるわけです


実際、最終的に30分バージョンの発表資料では自己紹介は1行に変わった
>nishio自己紹介: 最近は画像生成AIの論文とソースコードを読んで中身をいじってました
次のスライド違う視点を提供することで多面的理解を促す へのつなぎが必要だったんですね
「このスライドにつなぐ『バックグラウンドがだいぶ違う』を言う必要がある」と「時間がないから自己紹介は削りたい」との対立解消
バックグラウンドが違うことによって違う視点を提供する 多面的な理解を促す それは360度の視角から が大事だと川喜田二郎が言ってるから〜と繋がっています

nishioあと3つ名前をつけたのだけど時間なのでこれで終わりにしようかなと思います
ここまでのところで何か質問あるでしょうか
human「KJ法の我流を作って共有していったらいい」は「ベースはKJ法」という理解でいいですか
nishio「ベースのKJ法」という概念がかなり曖昧ですよね
「ベースのKJ法」の「ベース」の部分はどこか?
僕の友達にエクセルの上でセルのカット&ペーストで関連のあるものを近くに集めたり動かしながら物事を考えている人がいて(Excel型KJ法) 僕はこれをKJ法だねと思っているわけなんです
アウトライナーの好きな人が
ガーッと書き出していって
「アウトライナーはツリーを畳むことができるんだ」
「なのでツリーの親のところに子供の内容の要約を書いて、ツリーを畳むことによって概念を整理していくことができる」
これはKJ法のグループ編成ですね、と僕は思います
「KJ法」と関連する概念群のうち、こういうレベルの「エッセンス」というか「知的生産の原理」というかは有用だと思うんですけど、付箋を二次元に並べるかどうかに関しては僕はMUSTではないと思っている
「知的生産の方法として効果を生み出すか」に関しては常に必要な要素ではないと思っています
どういう時に二次元配置が必要になるのかはまだ言語化できていない
どの部分が知的生産術が効果を発揮する上で大事なエッセンスなのかはまだ明らかでない
多種多様な方法を比較して、これの共通点はどうだなとか、そういう話がよりマチュアになっていかないと分からないと思う
例えば
「全てのデータは嘘である」「嘘のデータを総合していくことによって真実に近づくんだ」みたいな考え方とか
「結論が正しいかどうかは、机の上で考えてわかることではなく、行動によって検証すべきことなんだ」みたいな考え方とか
こういう考え方が重要なエッセンスになるんじゃないのかなって気がします
具体的な手法ではなく。
human我流を作ることは、我流を作る本人にとってはいいことだけど、それを共有していくなら「他の人も使えたらいいよね」ってなると思う
いっぱい我流が共有されていくと「Aっていう手法と比べてBっていう手法はどこが良いのか」となる
それが言語化されていかないと、発想技法のように「よく分からない有象無象がいっぱい出てくる」「どれが良いのかわからない」みたいなことになりそう
「エッセンス」「ベースの手法」があって「そこからこの部分を改造したよ」という差分が手法ごとに比較できると、我流のものを他の人が使うときに使う側にとってはいいのかな
守破離の破の部分を上手く支援してあげたらすごく面白そうだなと思いました
nishioそれを聞いてて思ったのは、我流の方法がたくさん出てきた上でその我流の方法に対する「地図」が必要なんだろうな
まだ「主要な道」は何なのかとかそういうところがまだ僕は見えてきていないですけど
いくつか「主要な道」があるように思っていますね
nishioあと他の人に使ってもらう場合にツールの入手容易性はすごい重要に効いてくる
KJ法は「川喜田二郎のラベルを川喜田研究所から買います」ではなくてポストイットでできるようになったからすごい広まったわけだけど、ポストイットの発明って川喜田二郎のKJ法の発明より後なわけですよ
今回の勉強会ではMiroを使ったわけなんですけど、Miroが生まれる前の段階で、紙で同じことできたかっていうとどうだろうね、無理なんじゃないかなっていう感じ
利用できるツールの入手可能性が大きく影響してくる
Kozanebaももうちょっと使いやすい感じでリリースできるといいんですけど、まあボチボチ、僕の開発リソースとの兼ね合いなんでw
humanいやでもなんか全体のメッセージとしてすごい共感するようなと思って聞いてました、ありがとうございます
nishioKozanebaを作り出した時点では気づいてなかったんですけれども「線を引く」のってこんなに大事だったんだなって
「線が必要である」ってが言語化されたのがKozanebaを作って一番良かったところかもしれない
human確かに、そういう試行錯誤の過程で必要な要素が明らかになるのはすごい面白いですね