分類してはいけない
KJ法の説明で「ポストイットを分類する」という説明をする人がいる。
川喜田二郎本人の解説を読んでないのではないか。
> 頭のよい人が一人いて、「これらの資料はいずれもマネジメントに関係があるのだから、これこれこういう分類のカテゴリーでしわけよう」ということを提案したらしい。他の数人もそれに賛同して、あらかじめ分類ワクがきめられた。そしてそれに従って 、くだんの紙きれを配っている最中であった。これはすでにのべたように 、男性、とくに知識人の陥りやすい独断性の問題である。そこで、この部屋の紙きれ群も、私はばらばらにしてしまった。
> この事例のように、理屈の上でわかっているつもりでも、いざ実行というときになると邪道を歩む人がなかなかに多いので ある。それほどまでに 、われわれはいつの間にか 、独断的な分類のワクぐみばかりに取りすがり、事実やその情報の語りかけに素直に耳を傾けようとしない悪習を身につけている。
頭で分類してはいけないとわかっていてもついつい独断的に分類してしまう。しかしそれは邪道だから避けて通らねばならない。
この考え方はいくら強調しても伝わりにくいので、繰り返し教えていく必要がある。
そんな状況なのに真逆の「KJ法はポストイットを分類するんです」なんて解説をする人がいると「この人、ちゃんと原典を読んだのか?」と感じる。そういう講師にKJ法を教わって、つまらないものだと思い込んでしまう人もいるらしい。
>自分の心のなかに、「これだけの紙きれの資料は、自分の考えによれば、内容的に市場調査・品質管理・労務管理と三つに大きく仕切るのが正しい」などというたぐいの、グループ分けについての独断的な原理をあらかじめ頭の中にもっているからである。その独断的な分類のワクぐみを適用し、そのできあいのワクの中にたんに紙きれの資料をふるい分けて、はめこんでいるにすぎないのである。これでは KJ法の発想的意義はまったく死んでしま う。