井戸端で他人の情報処理を期待して書く(仮)
タイトルは仮、あまり言いたいことを上手く言語化できていない
結構よく言語化できてるんじゃない?
タイトル案: 「井戸端における情報処理の外注と集団的知性」
他人の情報処理を期待する行為は集団的知性の一種であり、新たな知識の創出につながる
井戸端で、他人の情報処理(?)を期待して自分の頭の中にあることを書くことがある
例
今の自分の中にあることを他人にみてもらえば、冷静/論理的/批判的な指摘がもらえそうだなと思って書いた
自分の中にある曖昧な思いつきを書けば、それを他の概念と関連づけられる人がそれを書いてくれるのではと思って書いた
このページのタイトル
あんまり良い表現が思いついていないが、とりあえず書けば意図を汲み取って良い表現を思いつく人がいるのではないかと思って書いた
井戸端で情報処理を外注する?
あまり言いたいことを上手く表現できないが、
XXについて考えてくださいと他人に依頼するのではなく、
XXという情報を置いておく事で誰かがそれをみた時にふと思いつくことがあるのでは、みたいな?
ちょっと違う気
布石はあとに生きてくることを予見して置く
このページで言われてることは「期待」
予見よりも少し弱いか
「誰かがより良い解決法を見つけてくれるだろ!」という気持ちは
マイクロスコープのそれと近い
良い
「一人で何かについて思考する時」と同じサイクルが複数人で発生している、と言えそう?
「A. 何かについて一度考えて、書いてみる」→「B. 書いた物を別の時に見返してみて、追加で何か思いつく」→「A. それをまた書いてみる」→ (続く) みたいなサイクルがある
(Bの時に思いつく物は場合によりけり、具体例だったり連想だったり批判だったり)
このページで言いたいのは、A -> B -> A -> Bのサイクルを複数人でやっている状況のこと
もうちょっと細分化すると
1: 何かについて一度考えて、書いてみる
2: 寝かせる
3: 脳がリセットされた後で(=別の時に)見返してみて、追加で何か思いつく
4: それをまた書いてみる
この「2」の部分で「手放してる」感じがある
一人でやってる時は「寝かせる」感じ
井戸端に書く時は「放流する」とかな感じ
そうか、自分が関与してない間にも「魚が泳ぐ」とか「芽が伸びる」が起きるんだな
寝かせてる時には起きない
うーん、でも普通の議論も上のサイクルを複数人でやっているように思えるが、井戸端で起きていることはそれらとは違いがあるように思う
井戸端の場合、
見てもいい的なコミュニケーションの消極さがある
これが、一人でサイクルを回す時の体験に似ているのかも
一人でサイクルを回す時も、書いたものを将来見返して何か考えるという義務はない
Scrapboxのリンクによって、将来見返されるという現象が起こりやすくなっている
井戸端に下記画像でいうData、Information、Knowledgeあたりを書いておき、「他人の情報処理」の結果としてInsightやWisdomが得られるのを期待するということだろうか?
Dataを提供した本人には関係ないように見えているが、実は...という可能性もある
こういう
ユニコーンの絵みたいな突拍子もない
創発はどこから生まれてくるのかむしろ知りたい
突拍子がないのではなく、ユニコーンの存在を信じ込んでいる前提があるのかな
ユニコーンを当てはめること自体は別に陰謀論ではない気がする
もしかしてそれは人間でなくても良い?
西尾さんが今屋っていることで得られるものなのだろうか
この体験が貴重なら、他人のScrapboxに入る仕事なども成り立つか?
コンシェルジュサービス的な
アドバイザー
入った後何をしたらいいのやら
ある程度は得られるが、井戸端の方がワイワイしがちな印象
家の前に置いておくか、集会所の前に置いておくか、みたいな
玄関に入って立ち話してる感じ
おすそ分けを持っていくなどの「何らかの用事」ができた時に行って、少し滞在して帰る
関係ありそうなもの
今回の場合は、答えのあるものがわからないというより、
別の視点からの意見がほしいという感じだけど
名前を考える
人名や場所名から取る
井戸端の法則
布石?
種まき
釣り
丸投げということではない
昔のTwitterカルチャーにおけるゆるぼに近いものを感じる