scrapboxの共有編集によってなぜか自己否定に陥った - やってみる
出来事の要約(箇条書き)
利用者XがWebサービスscrapboxを試用: 初期はひとりで書いていた。そうして使う分には何のモヤモヤもなかった。
要望ページでの経験:
X(「やってみる」ブログの著者)はscrapboxの要望ページに自身の要望を投稿。
文章に他のユーザーによる加筆が入る
その結果
混乱: Xは「誰がいつどの部分を書いたのかが不明瞭になり、対話や議論が追いにくい」と感じた。
個人的な感情:
他人による編集が行われると、Xは「申し訳なさ」のような感情を感じる。
また、Xは他人の書いた部分を消したり修正することに対する罪悪感や不安が生じる。
個人の心理的な問題: 共有編集機能により、
自己否定に陥る。他人による編集が「存在価値のなさ」を意味すると感じる。
結果: 他人による編集への恐れから、最終的にscrapboxを使わなくなった
今まで全然見かけなかったタイプの意見・体験だ
井戸端の方でbookmarkしてみる
>まず、こうやって「書き換えられる前の原文を残しておいたほうがよいのでは?」という懸念を思い、その対策として記事をわざわざ作って残しておくのが面倒だった。なぜこんなことを懸念したかというと、知らない人に編集で消されて「そんなこと書いてなかった」といわれるような、言った言わない問題になるんじゃないかと恐れたからだ。
全然考えたことなかったが、たしかにそういうケースも起こりうるかもしれない?
ぜんぜん用途に合わないツールを使っているからかな
発言者指向を重視するときはSlackとかが向いている
> あと、答えてくださった方は開発者ではないらしい。私はそれをわかっていなかった。でも、それに対する応答を書いたら余計に文章がぐちゃぐちゃになってしまう。でも、無視するのも心苦しい。せっかく答えてくださったのに。でも本題と関係ない文章ばかりが増えたら、主旨がわかりづらくなる。本質の「要望」から遠ざかってしまう。一体どうしたらいいんだ。などと、モンモンとしまくった。結局、それについては何も返さなかった。
> さらに、応答してくれたことに対するお礼も書けない。やはり文章を汚してしまうから。
> それらが重なり、やがて「申し訳なさ」のような感情が大きくなった。
中クリックでリンク先にワンクリックで遷移できるのしらんかった
軽い気持ちで
がやった追記修正がここまで精神的に追い詰めていたとは全く気づきもしなかった……
あんまり相手の気持ちを考えていなかったかなという反省と、一方で流石にここまでは推測できないから仕方ないのではないかという思いの両方が湧き上がってきてもやもやする
誰が悪いわけでもなく、たまたま合わなかったということだと思う
たまたま合わなかったなるほど
誰でも参加可能で、開発者じゃない人も返事ができるってのはかなり特殊な状況ですよね
だからどうすべきなのかは知らないけど
でもGithub Issuesでもその他のフォーラムでも「誰でも返事できる」なのは同じだからそれほど特殊でもないような…
名前付きの投稿が一次元に並ぶのではなく、全部共同編集可能ってところは特殊だと思う
第三者の投稿を誰でも編集できるのが特殊
あんまり関係ないことを書いてぐちゃぐちゃにしたくないというのは分かる気がする
逆に
井戸端だとそういうことがない
アウトライナーのように折りたたんで一旦隠しておきたいこともある
整理することは目的ではないので、綺麗にしようとしすぎないほうがいいんだろうなあ
wikiに直接書き込むのではなく、
コメント機能があることによるメリット
> ブログなら否定的なコメントを受けたところで、私の文章そのものが勝手に消されたり修正されることはない。なので安心して書ける。まちがいが指摘されたときも、自分の思うように修正できる。まちがいをあえて残して打ち消し線で修正するのか、それとも文章を消してあたらしい文章にするのか。そういったことを自分で決めて書ける。ようするに、ブログのコメントは提案であって修正ではない。だからブログのコメントは嬉しいものであっても、scrapboxの修正は恐ろしいものに感じたのだろう。
思考がかなりネガティブな方向に突き進んでしまっている面があるものの、文章自体は十分きれいに書けていると思うけどなあ
支離滅裂ではないし
成果物を存在価値と結びつけてしまうのはつらそう
(こんなところで人の価値観をとやかく言うのもあれだけど)
要望文を完成させることにプライドを持ってる人がいるとは思わなかった
議論できない人がコミュニティに書き込みをすべきじゃないと思ったけど違うのだろうか?
あのフォーラムの目的としては、来るものは拒まず受け入れて、議論が始まって、議論が嫌な人が去るのも自由、という感じが良さそう
要望だけ書いて、議論は他の人に任せるのでもいいと思ってる
あ、「議論できない」って議論をしないで去る事ではなく傷つきながらも参加してしまう事か
例えば、
これが(このページのように)引用+コメントの嵐でも耐えられたのかが疑問
編集されること自体が精神的にダメだったのか、それとも指摘されたのがダメだったのかをはっきりさせないとわからないな
正直「よくわからない」と言う気持ち
元の文章の「Draw機能があると他の人に画像を書き換えられてしまう」に関しても同じ方向性を感じる
あ、ブログの方に書いてあった
そんなに他人に編集されるのが嫌なのか…
何か言語化されてない幼少期のトラウマ(作文をいじめっ子に笑われて破り捨てられたなどの)が刺激されてるのではないかと感じる反応の激しさ
編集されることへの恐怖は全然わからなかったけど、恐怖自体はちょっとわかった
自分でもわからないところで何かの条件を踏んでしまうと壊れる
もちろん、感情とかトラウマの問題
僕も「他人が書き換えられない個人のScrapboxプロジェクト」の割合がかなり大きいユーザだと思うけど。
ブログを使ってた時代にも、
結城浩さんのツイートが何かで「意図的にコメントを付けられなくしてる」ってのを見てすごく共感して付けられなくしたし
「
自分の庭」である自分のScrapboxやブログの文章が他人に書き換えられないのは当然の権利だと感じるし、もしScrapboxがそもそも「個人のプロジェクト」とかのない「すべて誰でも書き換えられるもの」だったらブログからの移行先に選択してない
デライトがそんな感じで、「自分の庭」が全く持てない作りになっていたので合わないと感じたのを思い出した
まだ学生だった頃にWikipediaのあるアルゴリズムのページに善意でコードでの説明を載せたら、なぜか他の言語での実装が書き連ねられて、最終的に誰かが全部消した
この経験が不愉快だったのでそれ以降Wikipediaには書かなくなった
かなしい
そこに書いたものが書きかわったとしても、そもそもそこに置かれた時点で「自分が占有しているもの」ではなくなっている
別の話を一緒くたにしてる気がする
最初の話に戻ってしまうけど、結局「書き換えられたくないなら個人のプロジェクトに閉じこもってればいいじゃん」に尽きる気がする
公共の場に来て他人が自分の思い通りにならないことを嘆かれてもな
それが社会では?という気持ち
一通り読んだけど、一緒に編集する相手を間違えてそうという感想になった
嘘、断片しか読めてなかった
不特定多数が現れるPublic Projectだと選ぶのはまず無理
いや、これはただの想像か、だとすると……
選べるならそうだよね
多分私は自分が書いた物を理由あってごっそり消されても「ふーん」で済ませられるので理解できない価値観なんだろうな
文章そのものには
価値が無いという価値観、そこに含まれる意図にこそ価値があるのでそれが尊重されていればいい
されてなかったら
も文句言います
流石に極端過ぎるような気がする
もし自分の意見を編集してくれて、それが自分が言いたかったことじゃなくなってしまったなら元に戻して追記する
動いてる=更新されてるときが新しい意見を得られて自分の成長にもなる?
わかる、「動いてる」の方が「動きが止まってる」よりも良い状態
> ただ、この文書をみて思うことがある。だれがいつどこに何を書いたかわかりにくくない? どの応答への返しとして何をどこに書いたのかわかりにくくない?
井戸端のアイコン記法はうまいことこれを解決していてすごいと思った(小並感)
こういう場合あとから編集する
されないこともある
長いから読むのがつらい
精神が荒れているとそういう文章書いちゃう
Added on 2021-08-23 13:51:51
wikiとして使っているかblog的な使い方してるかみたいな使い方の話な気もする
ちゃらんぽらんに書いている自分にはわからない話だけど、イメージは出来るしやすいというかわからなくもないというか
A=成果物への他者からの介入
ならA=他者からの指摘
この文章を見つけた当時は、自分の考え方と全く違う考え方だと思っていたけど、今はむしろ自分そっくりだと思う
でたちが悪いと思ってるのは、
は他者への指摘を、相手がどう思うか気にすることなく無配慮にしているところ
cons: このときの問題点は無遠慮な他者への指摘ではなかった気がする……
人格否定に直結しているのはデメリットしかない。できることなら解消したい