雑に読む『勉強の哲学 来たるべきバカのために』
目次
はじめに
第1章 勉強と言語ー言語偏重の人になる
第2章 アイロニー、ユーモア、ナンセンス
ノリとボケとツッコミの話が出てた記憶
そうそう、それです!!
第3章 決断ではなく中断
第4章 勉強を有限化する技術
結論
補論
参考文献
あとがき
あざっす(棒人間しか描けないです)
第1章 勉強と言語ー言語偏重の人になる
>勉強とは、かつてのノッていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。
目的、環境のコード、ノリ
「周りに合わせて生きている」とは環境のコードによって、目的的に共同化されているという意味
「目的的に共同化」ってどう説明するかな
ミスキーでの
みたいなリアクションシューティングをつけるのは環境のコードに合わせてると思う
どういう目的があるのか?一体感?
井戸端の環境コードはなんだろうか
よく見る人をイドバタニシになぞらえるとか
そうですね
環境的な制約=他者関係による制約から離れて生きることはできない
でも環境依存的に不自由だから、行為ができる
>無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。
あれもこれもと無限に選択肢がある状態では何もできないというのはわかる
>ノリとは、環境のコードにノッてしまっていることである。
>自分は、環境のノリに、無意識的なレベルで乗っ取られている
「言語」によって環境に属しながら(その場にいながら)距離を取る
寒いジョークを言ってみたりして「ノリ」から逸脱する
享楽的な語りのボケと、(〇〇)のアイロニー
自分とは、他者によって構築されたものである
❌「裸の自分がない」 = 「個性」がない
⭕個性的な存在ではあるが、100%自分発の個性はない
>個性とは、私たちひとりひとりが「どういう他者とどのように関わってきたか」の違いなのです。
>個性は、他者との出会いで構築される。自分の成分としての他者が、自分の「欲望」や「享楽」の源泉になっている。
>私たちは個性的だが、個性とは「他者依存的」なものである。
きりばりのオリジナリティ
音楽の趣味なんかで感じる。好きな曲やアルバムを集めると個性が出てくる
要素よりも選択で個性が滲んでくる
「文体」の選択でもよく見られるような気が
ここで「他者」という語が使われてるのは、ラカンの
大文字の他者が念頭に置かれてるのかな
言葉の意味は、環境のコードのなかにある
>言語を通して、私たちは、他者に乗っ取られている。
言語は、環境の「こうするもんだ」=コードのなかで、意味を与えられる
言語習得とは、
環境のコードを刷り込まれること
ある環境において、ものをどう考えるかの根っこのレベルで「洗脳」を受けるようなこと
言葉ひとつのレベルで価値観(
イデオロギー)を刷り込まれている
話す言葉によって性格が変わるというのもよく聞くが、言語とコード(文化)が紐づいているとするならわからんでもない
「俺」という一人称を使っているヤンキーはぬいぐるみをなかなか買えない
分かりやすい
「言語の他者性」
> 言語それ自体は、現実的に何をするかに関係ない、「他の」世界に属している。
>言語によって構築された現実は、異なる環境ごとに別々に存在する。言語を通していない「真の現実」など、誰も生きていない。
色眼鏡でものごとを見るとはいうけれど、そもそも誰もが「現実」を直接見れていない
正見という達成困難な目標
言語は、私たちに環境のノリを強いるものであると同時に、逆にノリに対して「距離をとる」ためのものでもある
たとえば古語において蜘蛛(ささがに)は恋する相手の到来を示す象徴だった
現代においてはこの意味はない、そういう解釈をする環境が失われて久しい
なのであえて蜘蛛を見たときに「背子来るやん!」と思うことで、現代の「ノリ」から離れることができる
二つのノリがぶつかる狭間から、言語の世界へ
>違和感のある言葉と出会う→言葉の用法=意味は変更可能なのだ(器官なき言語)→言語は現実から切り離して自由に操作できる、言語操作によって無数の可能性を描くことができる。
>自分を言語的にバラす、そうして、多様な可能性が次々に構築されては、またバラされ、また構築されるというプロセスに入る。それが、勉強における自己破壊である。
プログラミングにおける「変数」とか「オブジェクト」とかの言葉も最初は文字と音としか認識できなかったけど、だんだんとそれらの概念がわかってくると別の文脈でも自分の言葉で言えるようになってくる
自分の言葉で書く(話す)のは、一度自分の中でバラバラになった後でしか使いこなせない
あえて普段使わない言葉遣いをしてみたり、繋がりのない言葉を繋げてみても良い
言語遊戯、言語を道具的に使用するではなく別のものとして使う感じ
他者タシャタシャターシャ
このへんは詩のあり方と繋がる
上の着衣のたとえを使うなら、いつの間にか着ている服を一回脱いで、別の服を着てみるような
ちょっとずれるけど文をバラバラにするのはスクラップボックスの編集中にもやる
はじめにプロセッサした文をバラバラにして組み替える
そのあと再構成する
さんが時々ついったでダジャレを言うの、この「言語をわざと操作する意識」の練習なのではと思っている
>深く勉強するとは、言語偏重の人になることである。
第2章 アイロニー、ユーモア、ナンセンス
言語を玩具的に使うためのテクニックは大きく2つある(p.61)
ツッコミとボケ(この本ではアイロニーと
ユーモアで説明する)
「コードの転覆」
>そもそも不確定なコードをますます不確定にすることを、「コードの転覆」と呼ぶことにする。アイロニーとユーモアはそのための技術である。
>自分のこれまでのあり方に対するコードの転覆を考えられるようにする
>これまでの自分のノリに抵抗する別の自分を、言語的につくり出す
>自分自身に対抗して、じぶんでわざと、もうひとりのキモい自分を言語的に作り出す
不確定なコードをますます不確定にする例、あるだろうか
私はよく知らないけどゼンカイジャーによって「
柏餅」が得体の知れない性格を帯びたときとかかも
既成の「常識」なるものを言語で突っついて揺るがす例、詩歌ではよく見る気がする
英国の詩人の
ジョン・ダンという人が
蚤をモチーフにした
恋愛詩を作っていた。蚤の中で混じり合う血に愛を見いだす趣向で
キモいびっくりした
当時においてはどう享受されたか知らないがこんな発想あるんか〜と思った
本書での例
「クリームが滑らかだね」「メロンがいい香り」など
無難な感想を言い合っている中、「そっちのはおいしい?」という質問に対して、「・・・おいしいって答え以外、許されているの?」「おいしいってそもそもどういうことよ?」など「おいしい」と言えることの根拠に攻撃を向けている
「メロンっていい香りだと思わないんだけど」
言われたらこいつ
ノリ悪いな〜って思いそう(それが狙い)
芸能人の不倫報道についておしゃべりをしている中でのアイロニー
「イメージが台無しだわ」「子供もいるのに」など、不倫した芸能人を非難する方向(「不倫は悪だ」という価値観、環境のコード)の中、「でも、そもそも不倫って悪いことなの?」「不倫=悪とする
根拠は?」という疑問を投げかける
ナンセンスという第三の極
ナンセンスがどういうことなのかを理解できると、かえって「普通」がなんなのかがわかるようになる
>極端を知ることで、そこまでは行かない手前をよりよく知るということです。(p.75)
で脱線してネストが深くなっているインデントの事が思い浮かぶ
(脱線)がついているようなの。これはユーモアっぽい
そもそも前提は正しいの?と聞いてるのはアイロニーだろう
で、そのユーモアとアイロニーを逸脱していく場合は何になるか
ユーモアは例えば3hoplinkくらいまでいくとだんだんナンセンス化してくると思う
元の文脈とだんだん関係ない話になっていく
これを極限まで進めると「ナンセンス」になる、が、「その手前に留まる」のがこの本での狙い
の例えはおもしろい。2hopまでは意味があるが、どんどんhop数が増えると無意味になっていく
意味・関係がどんどん希薄になっていく
>コードの不確定性を最大限にまで拡張してしまえば、どんな発言をつないでもつながる、つながっていると解釈しさえすればいい、ということになる。(p.95)
リンクでつながってるんでつながってるよねーという抗弁
ナンのセンスと聞くと
ナンづくりを思い出す(ユーモアの発動)
フライパンでもけっこう美味しく焼ける
南インドの
ミールスではナンではなく
パパドが出ることが多いらしい(さらにユーモアを重ねる)
この前テイクアウトで頼んだらアルミホイル内で湿気てもちゃあ…としてあんまり美味しくなかった…
初手青リンク多いですね
呼び名は色々あるんだな~
どれが好き?わたしはパッパルが好きです
ここまで来ると「ナンセンス」だと思うのですがどうだろう
…さて、こうした脱線は
においてはしばしば切り出しで分離させられる
の切り出しには
ユーモアの切断、隔離の機能があると思う
どの単位で切り出すか、どこまでのりしろを含めるか
切り出し手に思いを馳せる
でアイロニーの過剰を目指す時はどうなるかな?
そもそもアイロニーって何よ?
この本においては「過剰なツッコミ」、どんどん正しさを求めていくようなことだったと思う
どこに書いてあったっけ?そんな風に千葉さん言ってたか?
このページでの議論とか?
+1
アイロニーは無限に意味を収束させていくような
収束ムーブだしユーモアは無限に連想していくような
発散ムーブだ
無限にやると過剰なので「ほどほど」を見出す必要がある(p.97)
拡張的ユーモア:どんどん連想をつらねていくようなユーモア
縮減的ユーモア:「不必要に細かい話」
>客間では煖炉に薪がもえていた。この暖炉を見るとセリューズには田舎の思い出がよみがえった。燃えあがる炎は彼が閉ざされそうに感じていた氷を解かしてくれるのだった。
> 彼はしゃべった。率直にしゃべった。この率直さはさいしょは拒否のように感じられてドルジェル伯は少し気をわるくした。伯爵は誰かが(私は火が好きです)などということができるとは想像したことがなかった。これに反して、ドルジェル夫人の顔は生きいきとしてきた。彼女は暖炉の前の火除けより高くなっている革の腰掛にかけていた。フランソワの言葉は、野生の花を贈られたように、彼女をさわやかにした。彼女は鼻孔をひろげて深く呼吸した。彼女はかたく閉ざしていた唇をひらいた。二人は田舎の話をした。
>(...)アンヌは、床にしゃがんで、オペラの舞台を正面から見るようにこの高い煖炉にむかいつつ、いつもおれはこうだといわんばかりに、おとなしく口をつぐんでいた。
> なに事がおこっているのか? 生れてはじめて、アンヌ・ドルジェルは傍観者になっていたの田舎は伯爵にとっては無意味な文字にひとしかったから。
田舎暮らしという共通点がある二人の話が盛り上がる
雑談による交流が目的であろうはずなのに、ここでは二人しかわからない「
田舎暮らし」の話をするために話をしてしまっており、アンヌ・ドルジェル伯爵は置いてけぼりになってしまっている
このあたりまではなんとなく読み進められた
2章後半部分の「形態の享楽によるユーモアの切断」??となっている
「形態の享楽」=自分自身のこだわりによって、無限に続く拡張的/縮減的ユーモアを「切断」=有限化する
p.108
何でも全て関連していると言えてしまうけど、自分たちの「享楽的こだわり」、「重みづけ」によって話を選択している
下を見ると、その重みづけを自覚しようってことになるのだなあ
なるほど
『
メイキング・オブ・勉強の哲学』p39-40 「享楽的こだわり」によって勉強を中断することが可能という話ですが、それがなぜ可能なのかが理解できません。勉強において「享楽的なこだわり」がどのくらい許されているのでしょうか? に対するアンサーに学生に向けた噛み砕いた説明もあった
>僕自身が勉強において「享楽」が大切だと言うとき、別にあなたの趣味的なものを全面的に論文に書きなさい、などと言っているわけではないんですね。そうではなくて、 自分はもうこれ以上のことは考えられないとか、自分はこの問題にどうしても注目してしまうんだといったような傾きを自覚しましょう、と言っているんです。たとえば歴史研究というものを考えてみたときに、どんなに中立を心がけるようなタイプの研究者であっても、何か必ず特定のポイントに注目したり、偏りが生じたりするわけです。 僕が「享楽的こだわり」と呼ぶのは、そういうものです。あるタスクに割くことのできる時間は有限ですから、論文ひとつを書き上げるにあたっても、 あらゆる方面に配慮した完璧なバランスの論文なんて書けない。 どんなに完璧な中立性を目指しても、視点の設定や省略のしかたなどに、必ずその人ならではの個性が表れてしまいます。その表れてしまうものこそが「享楽」であり、それを自覚してくださいね、というのが僕の言いたいことです。そういう偏りを自覚することによって、主観性を出しすぎないようにコントロールすることもできるでしょう。
p40
>改めて強調すると、たとえば論文を書くときに、あなたの主観性を全開にしてかまいませんと言っているのではない。そうではなくて、 ある有限性のなかで仕事を完了しようとするときには、そこにはいくらかでも主観的あるいは実存的なものが反映されてくるだろう、ということです。
言語の「非意味的形態」?
>意味を伝えるためではない強度的な言語のあり方を、言語の「非意味的形態」と呼びたい。(p.104)
「強度的」は「こだわり」を得るにあたって経験したインパクト的なこと
>それはトラウマ的とも言える経験で、不快でありかつ快でもある。それは意味以前の出会いである。何事なのかを考える余裕なしに速く、強く、何かが自分にぶつかってきた。
相手に意味を伝えるためではなく、自分の中にあるこだわりから出る、話すことそれ自体が楽しくなってしまっているような語り・ひいては言語のあり方のこと
「意味の次元と同時に存在する、意味ではない次元」?
この本で何回か二項対立として提示されているような気がする
前者が意味の次元、後者は意味ではない次元
二項対立意味の次元 | 意味ではない次元 |
言語の道具的・目的的使用 | 玩具的・自己目的的使用 |
| 強度的な言葉のあり方 |
アイロニーの過剰 → 「超コード化による脱コード化」 → 「言語なき現実のナンセンス」
拡張的ユーモアの過剰 → 「コード変換による脱コード化」 → 「意味飽和のナンセンス」
縮退的ユーモアの過剰 → 「コードの一部へとコード全体が縮減」 → 「形態のナンセンス」
深い勉強、ラディカル・ラーニングの進展の流れ
(1)アイロニーから始め、その過剰化をせずにユーモアへ転回する
(2)ユーモアの過剰化を防ぐために、形態の享楽を利用する
(3)享楽の硬直化を防ぐために、アイロニカルにその分析をする
なんとなくわかったような全然わかっていないような
ところでこれ、何の話をしてるんでしたっけ?
「キモい人」になるためのテクニックの原理の説明だと思う
アイロニーとユーモアの機能の詳しい解説
第3章 決断ではなく中断
現状把握から問題化へ、キーワード出しへ
勉強のきりのなさ
勉強の対象、範囲を有限化するための3つの方法
「決断」することはよいことだと思っていたが、中身が空っぽのまま、盲目的に、無根拠で結論を出すのは、たしかにヨクなさそう。あくまでも
比較の中断、「
仮固定」の状態であるというのが大事。
背景や根拠がまるっと抜け落ちて、それ自身が神格化する
仮足場の状態であることを常に意識する、よりよい考えがあったらいつでも乗り換えられるという気持ち
一着の一張羅をありがたがるのではなく、いろいろな服をきて、必要があればどんどん着替えていくような
勉強の主体は本や知識ではなく動き回る自分にある、という感じ
「決断」の場合はある本や知識に依拠してしまって主体がなくなってしまうのではないか
こだわりの変化
>出来事から直接にこだわりが結実したのではない。こだわりとは、出来事が、ある環境のなかで言語を通じて意味づけされ、機能をもつようになった結果である。p.152
「強度的」
>こだわりの環境依存的な面――こだわりの「殻」――を分析してバラし、発端にある無意味な出来事――こだわりの「核」――の方へと戻ろうとする、出来事と出会い直そうとする。 p.153
「
原体験」と呼ばれるものに近いのかな
出来事と出会い直すってのはもう一度再構築するような感じなのかな
端材にバラして新しく作り直す
来るべきバカへ
第4章 勉強を有限化する技術
ここからはTipsなので読みやすい
専門分野に入門する
読書は完璧にはできない
「全部読んでないけど」おもしろい本
教師は有限化の装置である
>授業を聞くときのポイントは、多くを吸収しようとすることよりも、教師が「いかに工夫して少なく教えているか」に敏感になることです。情報の有限化がポイントなのです。
説明にあたって何を切り捨てているかをみる
>教師は、まずは「このくらいでいい」という勉強の有限化をしてくれる存在である。p.182
専門書と一般書
信頼性、学問の世界
>情報の比較を続けている、つまり、勉強を続けている人たちは、何らかの「知的な相互信頼の空間」に属している。それは「研究」であり、最もシビアに言えば「学問」です。p.188
>信頼性の――絶対的ではなく、相対的な――根拠とは、その著者・文献が、「知的な相互信頼の空間から信頼を受けているかどうか」である。p.188
>難しい本を読むのが難しいのは、無理に納得しようと思って読むからである。p.191
>納得よりも先に、使われている言葉の種類や、論理的なつながりなどを把握してほしいということです。それは、テクストの骨組み、「構造」を分析することです。p.191
>自分の実感に引きつけないで読む、というのは、あるテクストを「テクスト内在的」に読むことである。それは、テクストの構造=設定における概念の機能を捉えることである。p.192
そのためにはどうすればよいか?
>言葉に対する自分の実感をゼロにして読むことなどできません。つまり、私たちは、自分が属する環境から完全に離れて言語を使うことはできない。そこで、自分のこれまでの言葉づかいをベースにするが、その効力を半分に抑えて、残り半分を、テクスト内在的な新たな意味に置き換える、という気持ちで取り組むのはどうでしょう。p.192
己の言葉遣いの効力を制御する
オノレのコトバヅカイのコウリョクをセーギョする
そういえば、自分がわかっていることに近づけて、引き付けて無理矢理理解しようとしてしまっていることが多いと感じた
己を虚しくしてテキストを読め、とはよく言われる
言ってたのは指導教官や世話になった教授
書いてあること以外のことを読まない(自分の解釈にひきつけて読まない)の、すごく難しい
アープラノートの哲学書読書会に参加した時、一語一語に立ち止まりつつ読んでいて「おお~こういう精度で読んでくんだな~」と驚いた
自分だと和歌を読むときに省略して読んでしまうのでもっと納得するのを捨てて読みたい
難しい
文章だけでなく、話の中でも、いままでの経験に当てはめて、「あーきっとこういうことね」と勝手にパターンマッチする傾向があるので、注意したい
とてもわかる
二項対立を把握する
言語のアマ・モードとプロ・モード
ノート術――勉強のタイムライン
書く技術――横断的に発想する
アウトライナーと有限性
>どんな段階にあっても、「それなりに勉強した」のです。完璧はないのです。
>そして、勉強を続けている者同士の相互信頼に参加してほしい。 p.214
三日坊主になりがちなので、肯定してくれる言葉がありがたい
再読がてら一枚絵にした