鄧小平
1904 生誕
1926 東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ
1927 帰国。ゲリラ活動に従事
1952 毛沢東によって政務院(のちの国務院)副総理に任命される
1968 全役職を追われる
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「こいつはまだ使えそうだな」
1973
周恩来の工作によって国務院副総理の職務に復活
1976
1月の
周恩来死亡によって周囲から批判されるようになる
この頃毛沢東は病床から連絡係を通じて指示していたが、連絡係が
文革四人組のシンパで鄧小平を批判を吹き込んだ
11-12月 中央委員会全体会議などで文化大革命が否定され、改革開放路線に政策転換がされた
華国鋒は「毛沢東の指示は全て守る」という文革路線だったので、反対した
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「毛の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に
反する」
ものはいいようというかなんでもありだw
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これが国家的な論争になり、人民は鄧小平を支持した
1981
華国鋒、党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任
胡耀邦が中央委員会主席に、鄧小平は中央軍事委員会主席になる
1997 死去
貧困からの戦争
国民の教育レベルが低いので民主主義はできないが、将来的にはできるかもしれない(1987)
1989年9月14日
>サッチャー首相が日本政府の関係者に対し、6月の六四天安門事件を受けて、トウ小平氏の考え方や香港の将来を不安視する発言をしていたことが、公開された外交文書で明らかになりました。
>サッチャー首相は千葉一夫イギリス大使との夕食会で「かつてトウ(鄧小平)と話し合った際、イギリス政府も法律の下にあることをどうしても理解せず、『国家が欲すれば法律をそのように変えればよい』と主張した。こんにちの中国の問題は、まさにこの考え方に根源があると思う」と述べ、法に基づく統治に対するトウ小平氏の考え方に懸念を示しています。