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書くことについて ~ON WRITING~

> ものを書くときの動機は人さまざまで、それは焦燥でもいいし、興奮でも希望でもいい。あるいは、心のうちにあるもののすべてを表白することはできないという絶望的な思いであってもいい。拳を固め、目を細め、誰かをこてんぱんにやっつけるためでもいい。結婚したいからでもいいし、世界を変えたいからでもいい。動機は問わない。だが、いい加減な気持ちで書くことだけは許されない。繰りかえす。いい加減な気持ちで原稿用紙に向かってはならない。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング (p.114). Kindle 版.

> 私がものを書くのは自分が充たされるためである。 書くことによって家のローンも払えたし、子供たちを大学へやることもできたが、 それは結果でしかない。 私が書くのは悦びのためだ。 純粋に楽しいからだ。 楽しみですることは、永遠に続けることができる。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.270

> ものを書くのは、 金を稼ぐためでも、 有名になるためでも、もてるためでも、 セックスの相手を見つけるためでも、友人をつくるためでもない。 一言でいうなら、 読む者の人生を豊かにし、 同時に書く者の人生も豊かにするためだ。 立ちあがり、 力をつけ、 乗り越えるためだ。 幸せになるためだ。 おわかりいただけるだろうか。 幸せになるためなのだ。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.289

> 別の日に、母は死体を見たときの話をしてくれた。船の甲板員で、メイン州、ポートランドのグレイモア・ホテルの屋上から飛び降りて死んだらしい。「ぐしゃぐしゃになってたわ」母は持ち前のこともなげな口調で言い、少し間をおいてから付け加えた。「身体から緑色のものが流れでてたのよ。あれは忘れられないわ」ぼくだって、忘れられないよ、ママ。 書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.17

> ひとつここではっきりさせておこう。小説に関するかぎり、アイデアの集積所も、ストーリーの中央駅も、埋もれたベストセラーの島も存在しない。いいアイデアは、文字どおりどこからともなく湧いてくる。あるいは、虚空から落ちてくる。太陽の下で、ふたつの無関係なアイデアが合体して、まったく新しいものが生まれることもある。われわれがしなければならないのは、そういったものを見つけだすことではない。そういったものがふと目の前に現われたときに、それに気づくことである。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング (pp.33-34). Kindle 版.

> このときは採用された。それによって学んだのは、作家として多少なりとも名が売れたら、出版社は〝われわれ向きではない〟という言葉を使わなくなるということだ。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング (p.38). Kindle 版.

> それが実際にジョークだったかどうだったかはともかく〈デイヴのミニミニ通信〉は毎号五部ずつでスタートし、最初はごく近しい者だけに読んでもらっていたのだが、最終的には五、六十部にまで膨れあがり、一九六二年当時人口九百人の小さな町で、親戚や隣人を中心に多くのひとがこの新聞が出るのを楽しみにするようになった。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング (p.39). Kindle 版.

> 小説家でも詩人でも、作品が世に出れば、いつもかならず才能の浪費だと批判されるものだということがわかったのは、四十歳を越えてからのことだった。あなたが何かを書けば(画家でも、舞踏家でも、彫刻家でも、歌手でも同じだが)、かならず誰かにこきおろされる。それだけのことだ。これは私的な感想ではない。実体験にもとづく事実である。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング (p.47). Kindle 版.

> 「わかりました」──わかったというのは、ふたつの点に対してである。ひとつは、全体としてはよく書けている(少なくとも使いものにならなくはない)ということに対して。もうひとつは、余計な箇所が削られただけだということに対して。「次からは気をつけます」グールドは笑った。「それができれば、会社勤めをする必要はない。文章で食っていける。校正記号の説明をする必要はないな」「だいじょうぶです」「何かを書くときには、自分にストーリーを語って聞かせればいい。手直しをするときにいちばん大事なのは、余計な言葉をすべて削ることだ」このとき、グールドはほかにも含蓄のある言葉を口にした──ドアを閉めて書け。ドアをあけて書きなおせ。言いかえるなら、最初は自分ひとりのものだが、次の段階ではそうではなくなるということだ。原稿を書き、完成させたら、あとはそれを読んだり批判したりする者のものになる。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング (pp.57-58). Kindle 版.

> 新人作家が処女作を妻または夫に捧げているのを見ると、私の口もとはいつもほころぶ。〝わかってくれているひとがいるのだな〟と思うからだ。ものを書くというのは孤独な作業だ。信じてくれる者がいるといないとでは、ぜんぜんちがう。言葉に出す必要はない。たいていの場合は、信じてくれているだけで充分だ。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング (p.77). Kindle 版.


> 文章を書くときに避けなければならないのは、語彙の乏しさを恥じて、いたずらに言葉を飾ろうとすることである。それは飼っているペットに夜会服を着せるようなものだ。ペットはいい迷惑であり、そのような受け狙いの小細工をした者はとんだ恥さらしということになる。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング (pp.124-125). Kindle 版.

> 受動態と同様、副詞は臆病な作家が好んで使う。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.133

> たとえば〝Heclosedthedoorfirmly〟(彼はドアをしっかりと閉めた)。少なくとも動詞は能動態だし、文章自体に間違いはない。が、〝firmly〟はどうしても必要なのか。もちろん〝Heclosedthedoor〟と〝Heslammedthedoor〟とはちがう。そのことに異を唱えるつもりはない。だが、問題は文脈である。ドアを閉めるという場面に到るまでに、かならず何かがあったはずだ(かならずしも情緒的なことでなくてもいい)。そのことがドアをどのように閉めたかを語っていないだろうか。それまでの文章ですでにわかっていることだとすれば、〝しっかりと〟は余計だ。そんなものはいくらでも削っていい。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング (p.133). Kindle 版.

> 地獄への道は副詞で舗装されていると、私はビルの屋上から叫びたい。別の言い方をすると、副詞はタンポポである。芝生のなかに一輪ぽつりと咲いていたら、かわいらしい。だが、抜かずに放っておくと、次の日、花は五つになり、その次の日には五十になり、そのまた次の日には……というわけで、いつのまにか芝地はタンポポでいっぱいになってしまう。タンポポが雑草だと気がついたときは、ゲッ!もう手遅れだ。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング (p.133). Kindle 版.

> 作家のなかには、副詞無用のルールをかいくぐるために、動詞にステロイドをたっぷり注入する者がいる。 結果はパルプ・フィクションやペーパーバックの書きおろしのお馴染みの文章が一丁あがりとなる。 「銃を降ろせ、アタースン!」 と、 ジェキルは凄んだ。「キスをするのをやめないで!」と、シェイナはあえいだ。 「しつこいやつだな!」 と、 ビルは吐き捨てた。 これだけはやめてもらいたい。 お願いだ。 会話を説明する言葉としては“言った〟がいちばんいい。 “彼は言った〟、“彼女は言った〟、“ビルは言った、、“モニカは言った、で充分だ。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.135

> そして、どうか覚えておいていただきたい。副詞を使うのはひとの常、 “彼は言った、、 “彼女は言った、と書くのは神の業である。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.138


> 書き手はつねに読者を第一義に考えなければならない。読者がいなかったら、作家は虚空に吠えているのと同じである。読者の側に身を置くのは、かならずしも簡単なことではない。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング (p.132). Kindle 版.

> 名前は思いだせないが、 誰かが言ったように、すべての小説はひとりの人間に宛てた手紙である。 言いえて妙だと思う。どんな作家にも、 意中の読者がいる。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.232


> 下手な文章の根っこには、たいてい不安がある自分の楽しみのために書くなら、 不安を覚えることはあまりない。 そういうときには、先に言ったような臆病さが頭をもたげることはない。 だが、 学校のレポートや、新聞記事や、学習能力適性テストなどを書くときには、不安が表に現われる。 ダンボは魔法の羽根で空を飛ぶ。 われわれが受動態や副詞にすがるのは、この魔法の羽根の助けを借りたいからだ。 が、 ここで忘れてならないのは、ダンボは生得のものとして魔法の力を持っており、羽根がなくても空を飛べるということである。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.136

> 書くことを論じるために費やす時間は、書くことをやめている時間でもある。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.153

> 作家になりたいのなら、 絶対にしなければならないことがふたつある。 たくさん読み、 たくさん書くことだ。 私の知るかぎり、 そのかわりになるものはないし、 近道もない。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.154

> 私は本を読むのがそんなに速いほうではない。それでも、一年に七十冊から八十冊は読む。 そのほとんどは小説だ。読みたいから読むのであって、 何かを学ぶためではない。たいていは夜、書斎の青い椅子にゆったりと腰かけて読む。繰りかえしになるが、 読みたいから読んでいるのであって、小説の技法やアイデアを学ぶためではない。それでも、 読めば何かしら得られるものはある。手に取った本にはかならず何かを教えられる。概して優れた作品より、 出来の悪い作品からのほうが教わるものは多い。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.154

> 信じられない話だが、 本をほとんど、 場合によってはまったく読まずに小説を書き、 それを好きになってもらえると思っている者が、 この世のなかには少なからずいる。 作家になりたかったが本を読む時間がなかったという言い訳をする者に出くわすたびに五セントずつ貯めていくとしたら、 豪華なステーキのディナー代くらいはすぐにできるだろう。 ここではっきり言っておこう。 読む時間がないのに、 どうして書く時間があるのか。単純明快である。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.157

> 読書は作家の創作活動の中心にある。 私はどこにでも本を持っていく。 読む機会はいくらでもある。 大事なのは、本は一気読みだけでなく、 ちびちび読むのも悪くないということを学ぶことだ。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.157


> テレビのことを忘れると、ほとんどのひとは読書に歓びを見いだすことができるようになる。 テレビを切れば、文章の質だけでなく、 人生の質もあがる。 テレビを切って、何が失われるというのか。 ひとりのアメリカ人の生活をよりよくするために、 何度 『フレイジャー』や『ER』の再放送を見なければならないのか。 何度リチャード・シモンズのCMを見なければならないのか。 何度CNNで政界の裏情報に通じた白いぽっちゃり顔の解説者を見なければならないのか。言いだしたら切りがない。ジェリー・スプリンガー、 ドクター・ドレー、ジャッジ・ジュディ、ジェリー・ファルエル、 ドニー&マリー..いい加減にしてくれ。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング 158

> 私の日課はじつにわかりやすい。 午前中は執筆。午後は昼寝と手紙。夜は読書と家族団欒、 テレビでレッドソックスの試合、 どうしても後まわしにできない改訂作業。というわけで、原則として、 執筆は午前中ということになる。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.163

> 私にとっては、 仕事をしないことが仕事なのだ。 書いているのは遊び場にいるようなものだ。 そこで過ごしたなかの最悪の三時間ですら、 居心地はすこぶるよかった。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.164

> これで準備は整った。 書斎のドアは閉まっている。 カーテンも閉まっている。 電話のコードは壁から引き抜いたし、テレビは叩き壊した。 火が降っても槍が降っても、一日千語の目標は変わらない。 と、ここで大きな問題が持ちあがる—何を書けばいいのか。 それに対しては、ごく大づかみに答えるしかない。書きたいことを書け。なんでもいい。 それが真実であるかぎり。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.168

> おおよその場合、 ひとに本を買いたいという気持ちを起こさせるものは文学的価値ではない。 飛行機のなかで気楽に読めるかどうか、 読みだしたらとまらなくなるかどうかである。 それを可能にするのは、作中人物の行動や言葉や周囲の状況に対する共感だろう。 そこに自分自身の人生や信条に重なるものがあれば、 読者は作品に感情移入することができる。 このような読者とのつながりは、計算ずくでできるものではない。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.171

> 私の考えでは、 短篇であれ長篇であれ、 小説は三つの要素から成りたっている。 ストーリーをA地点からB地点へ運び、最終的にはZ地点まで持っていく叙述、読者にリアリティを感じさせる描写、そして登場人物に生命を吹きこむ会話である。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング

> ここで愉快なエピソードをひとつ今世紀、 誰よりもプロットに頼っていたと思えるのは、一九二〇年代の安手のベストセラー作家エドガー・ウォーレスだ。 “エドガー・ウォーレスの回転プロット、 なる仕掛けを考案して、特許をとった人物でもある。 話に行きづまったり、思わぬ急展開が必要になったときには、 プロット盤をまわして、 表示窓を見るだけでいい。 そこには“予期せぬ来訪者” とか、“ヒロインの愛の告白、、 とか書かれている。この商品の売れゆきはすこぶる良好だったらしい。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング

> ストーリーとプロットはまったく別物なのだということをどうか覚えておいていただきたい。 ストーリーは由緒正しく、 信頼に値する。 プロットはいかがわしい。 自宅に監禁しておくのがいちばんだ。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.182

> ストーリーテリングにおける誠実さは、 文体上の多くの欠陥を補って余りある。 セオドア・ドライサーやアイン・ランドのような悪文家がそのいい例である。 けれども、嘘は修復不可能な欠陥だ。 嘘つきが世にはばかるのはたしかだが、それはあくまで一般論であり、 血のにじむような一語一語の積み重ねから成る文章づくりの現場には当てはまらない。 自分が知っていることに対して嘘をつき、そのことを自分で感じはじめたら、 その時点で何もかもが崩壊する。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.185

> もっと細部を描写したいのなら、いくらでも書き連ねることができる。 店の狭さ、 スピーカーから流れてくるトニー・ベネットの歌、 レジに貼ってあるヤンキースのバンパーステッカー。 だが、 そんなものにどれほどの意味があるのか。 舞台設定や情景描写に関して言うなら、質素な一品料理と豪華な宴席料理のあいだにどれほどの違いもない。 読者が知りたいのは、ビリーがリッチー・マーティンの所在を突きとめたかどうかであり、 そのために二十四ドルの本代を払うのである。 レストランについてこれ以上くどくど書けば、話がだれて、読者をいらつかせ、本を読む楽しみをぶちこわしにする。読者が途中で本を投げだすのは、 作家が自分の描写力に酔って、もっと大事な仕事をお留守にしているからという場合が多い。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.190

> 禅問答風の直喩は落とし穴になる危険性がある。 だが、もっと一般的なのは手垢にまみれた陳腐な直喩や暗喩だ(これもやはり読書量の少なさに起因していることが多い)。“狂ったように走った、 とか、 “夏の日のように美しい、とか、 “引っぱりだこの人気者とか、“虎のように闘った" とか...... この種の陳腐な決まり文句で私(あるいはあなた) の時間を無駄にさせないでもらいたい。 まるでおのれの無知と怠惰を公言しているようなものではないか。 そのような描写は作家としての評価を間違いなく地に落書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.192

> 巧みな描写の秘訣は、 クリアーに見ることであり、クリアーに書くことである。 新鮮なイメージを平易な言葉で書くことである。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.192

> 先に述べたとおり、ジョン・カッツェンバックの『ジャスティス』はいい小説だが、 残念ながら会話の共鳴力と現実感には欠ける。 それを獲得するために必要なのは正直に語ることだ。 これはハンマーで親指を叩いた人間が思わず発する言葉にまで当てはまる (作り物の物語を媒介にしながらも、 人間が何をし何を話すかということについて、作家は嘘いつわりのないところを語ることを読者に約束しなければならない)。 公序良俗軍団に気がねして、“糞ったれ、 を “まあ、 大変、、 に書きかえるのは、書き手と読み手のあいだに成りたっている暗黙の契約に違反することにほかならない。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.200

> 私がヘンリー・ジェイムズジェーン・オースティンのような作家で、品のいい上流の人士や知識人だけを描いているなら、 卑語や猥語を使う必要はなかっただろう。学校の図書館から締めだされることもなかったろうし、“おまえは炎熱地獄に堕ち、 どんなに大金を出しても一滴の水も買えないだろう、という原理主義者からの手紙を受けとることもなかっただろう。 けれども、 私は良家のお坊ちゃんではない。 生まれも育ちも中の下で、私がいちばんよく知っているのは、 そこで生きている人々である。 ハンマーで親指を叩いたら、 みな “まあ、 大変..では“糞ったれ" と叫ぶ。 私はそいれてきた。 実際のところ、 そういったことに反発したことは一度もなかった。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.202

> 読者の反応が成功の尺度だとしたら、 『デッド・ゾーン』の冒頭のシーンは空前の大成功をおさめたと言っていい(これは私のハードカバーのなかではじめてベストセラー一位になった本だ)。 犬の虐待シーンが読者の神経を逆撫でしたのだ。 抗議の手紙が殺到した。 それに対して、私はいつもどおり自明の事実をあげて応えた。(a) グレッグ・スティルソンは実在しない。 (b) 犬も実在しない。 (c) 私自身ペットを足蹴にしたことは一度もない(自分のペットであれ、 他人のペットであれ)。ついでに、 私はさほどに自明ではない事実も指摘した。 冒頭でどうしても明示しておかなければならなかったのは、グレッグ・スティルソンが裏表のある、 きわめて危険な人物であるということだ。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.209

> 本はしばしばあなたに答えを与えてくれる。 だが、 いつもではない。 何百ページにもわたって私に付きあってくれた読者に対して、 自分が信じてもいない空虚な主張を押しつけるわけにはいかない。 『ザ・スタンド』に教訓はない。たとえば、 “学ばないと、 次は地球を破壊することになる、とか。 もちろん、 テーマがはっきりしていれば、その点について考え、それぞれに教訓なり結論なりを導きだしてもいい。 それはそれでかまわない。 そういったことに思いをやるのは読書の醍醐味である。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.223

> この短い講釈を終えるにあたって、 一言だけ警告しておきたい。 なんらかの問題意識やテーマにもとづいて書くというのは、駄作のレシピである。 優れた小説はかならずストーリーに始まってテーマに終わる。 テーマに始まってストーリーに行き着くことはまずない。 ごくまれな例外は、 ジョージ・オーウェルの 『動物農場』くらいのものだろう(この作品とて、 ストーリーの原案のようなものは最初からあったと私はにらんでいる。 あの世でオーウェルに会ったら、 尋ねてみよう)。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.225

> ストーリーのなかで繰りかえし現われるものは何か。 それらは撚りあわさって、 テーマをかたちづくるだろうか。 言葉を変えるなら、 “つまり何が言いたいんだ、スティーヴィー?" ということだ。 こういった意識の底にあるものをより鮮明にするためには、 何をすればいいのか。 大事なのは、 読者が本を閉じ、 書棚に戻したあと、しばらくのあいだその頭と心に余韻が響くことだ。 メッセージや教訓を恩着せがましく押しつけることではない。 そのようなものは日の当たらないところに押しこんでおけばいい。 大事なのは余韻を響かせることであり、のために求められている は、 自分 を言おうとしているかをはっきりさせることだ。p.231

> あなたがものを書くときにもっとも頼りにしている者のことを、ここでは “理想の読者” と呼ぼう。 “理想の読者" はつねにあなたのそばに寄り添っている。 書斎のドアをあけ、 夢の世界に光を当ててくれる現実を部屋に引きこんだときには、生身の姿で。 ドアを閉め、 ときに難渋しながら、たいていは感興のおもむくままに原稿を書いているときには、 気配として。 すると、 どうなるか。あなたは“理想の読者、 がまだ一行も読まないうちから原稿の手直しをしていることに気づくだろう。 “理想の読者はあなたが自分の殻から抜けだす手伝いをし、あなたが読者の目で書きかけの原稿を見る機会を与えてくれる。 ひとりよがりを避けるための、 これはおそらく最良の方策だろう。 あなたは自分ですべてを取り仕切り、そこにはいない観客に向けて演技を披露することになる。書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.237

> ところで、批評とはなんだろう。 そこにどれほどの価値があるだろう。 私自身の経験から言うと、 残念ながら、ほとんどなんの価値もない。 批評なるものの大半は腹が立つほど漠然としている。 たとえば、"ピーターのストーリーは感じがいい...... 何かがある...... よくわからない感覚だ...... ある種の優しさみたいな...... うまく説明できないけれど....書くことについて ~ON WRITING~ スティーヴン・キング p.252