知的生産
> つまり、かんたんにいえば、知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら - 情報 - を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ、くらいにかんがえておけばよいだろう。
この引用をみて、やっと「知的生産」という単語の意味が腑に落ちた
「考えること」くらいの意味しかないことが分かった
あとは、他人にこれを共有する、伝える、という文脈もある、程度
考えただけでは社会にとっては何も生産されてない
ひと=自分でもいいのかな?
「提出」だからなぁ
「考えること」よりかは「知的生産」の方が、動詞が隠れて名詞が中心となってる
目的語の隠蔽
「考えること」と言うと、何を?という気持ちになりやすい
疑問、目的語の不在が気になる
もちろん、何にもよらず、考えること一般について議論することは可能なのだが
「知的生産」というキーワードだと、これを隠蔽できる
あるいは、考えること一般について議論するように集中できるということかも
文脈の構築
「知的生産」というキーワードで語られ、検索され、記述されることで、文脈が形成される
個人的な感覚だけど「考えること」より高度なことをやっている印象を持つ
この「高度なことをやってる」という印象自体が、文脈によって形成されていると
は考えます
なぜなら、↑の書籍の引用の中には、「高度にやる」とは書いてないからです
一応念の為に書いておきますが、
「高度なことをやっている印象を持つ」を否定しているのではなく
まさにこの印象自体が、構築された文脈なのではないかと捉えられて面白いな
という視点で指摘しています
わざわざ考えたことを共有するのだがら、高度なことじゃないと共有しづらい
という傾向が発生するのかも
ツイッター上の人、アレもできてこれもできてつよつよ人種に見える、という現象と似てる?
実際は「何でも書いていい、むしろ考えたことは
書かないと消えてしまう」に近いのだけど、この剥離がどこから生まれるのかは気になる
これ、書籍の内容が、ということです?
書籍関係なく、あちこちで読んだ印象で話してました
知的生産に関するいろんな情報ということですか
ですね
「高度じゃないとだめ」というのはどこにも書かれていなかった
「自分の言葉じゃないとだめ」なら書いてあった
そもそもその「高度」とは何か
インデント深いから別ページに書いた
は
ゆるい知的生産に書いたようなイメージを抱いていたけど、これの原因もこの文脈の形成なのかもしれない
「考えること」という言葉ではこれは成立しにくい
知的生産が趣味の人
梅棹の定義は広すぎる、一方で
さん界隈で扱ってるようなものもたしかにあるはずで、僕はそれにこそ知的生産と名付けたい
梅棹も本当はそこを指したかったのではないかとさえ思う
ただこの時代ではまず通じないだろうから、一般人向け?に幅広い定義にして妥協したのではないか
実際、そのおかげで僕も知ることができた
正解がない、孤独、言語化する、発散と収束 etc