暇と退屈の倫理学
> 第1章 暇と退屈の原理論―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
> 第2章 暇と退屈の系譜学―人間はいつから退屈しているのか?
> 第3章 暇と退屈の経済史―なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?
> 第5章 暇と退屈の哲学―そもそも退屈とは何か?
> 第6章 暇と退屈の人間学―トカゲの世界をのぞくことは可能か?
> 第7章 暇と退屈の倫理学―決断することは人間の証しか?
> 付録 傷と運命―『暇と退屈の倫理学』増補新版によせて
ボリュームは多いが、読みやすく面白くて一気に読了できた
暇
何もすることのない、する必要のない時間
客観的な条件
退屈
何かをしたいのにできないという感情や気分
主観的な状態
有閑階級は、暇であることを許された人々
読んでいて思ったのは、今の自分もかなり暇を楽しめられる状態にある気がしている
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ただ、退屈に感じる瞬間はゼロではない
仕事中にそう感じることもあるし、休みの日にふとそういった感情になることもある
暇を退屈と感じずに楽しむためには努力・スキルが必要
この受容体は生まれ持った遺伝子的な要素だけではなく、日々生きている時に自分が構成しているもの
楽で安定しきっているから。それは退屈しきっている状態。
記号的な消費は終わりが見えず、退屈が生まれてしまう。浪費の方が満足しやすい
浪費して満足してしまうと、そこで人々の動きが止まってしまうから
現代のような、時間に余裕のある生活ができるようになったのはありがたいこと
暇な時間を退屈として扱うのは勿体ないし、先祖の努力をないがしろにしている感覚が生まれる
p33
>人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られなければならない。
我々はバラの飾り方を学ぶ必要がある
押し付けられたバラを飾っただけでよいのか?(記号的消費)
p43
今からウサギ狩りに行く人に、「どうぞウサギです」と渡しても喜ばないだろう。
決断は奴隷になることでもある p346
>決断は苦しさから逃避させてくれる。従うことは心地良いのだ。だからこう言わねばならない。人は従いたがるのだ、と。
テロリストになることも自分を満足させる決断の一つである
世界を楽しむことを学び続けること
p409
>しかし、世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。