「消費者」から「所有者」へ──なぜいま「修理する権利」が重要なのか
かなり近いと思います。違いを強いてあげるとすれば、今回は全文を予め貼り付けてあること、でしょうか。
いや、アクティブ読書もそうなのか??
そうです
👌
アクティブ読書どんどんやっていきたい
Mediumのその機能も気になる
現代文の読解問題を解くとき、文章に線を引いたり矢印で関係を書き足したりすると思うが、アクティブ読書においても読解するために文章に手を加える
元の文章を書き換えられない場合、元の文章の下に読解メモを書くしかない
以下本文
先週wiredでも記事が出ましたが、ついにアップルが(部分的にですが)折れました。最近よく耳にする「
修理する権利」の話です。
>今後は「iPhone」が故障したとしても、米国では独立系の修理業者に簡単に直してもらえるようになる。アップルが修理プログラムの拡大を決めたことで、今後は今後は独立系の修理事業者にも、アップル認定の正規サーヴィスプロバイダーと同様のツールやマニュアルや提供されるというのだ。
>今回の措置は、消費者の「修理する権利」の保証を求める動きを受けたものだ。アップルやマイクロソフトなどのテック大手に対しては、自社デヴァイスの修理やアップデートに必要となるツールなどの提供を厳しく制限しているという批判が起きていた。
> アップルが修理ツールを提供するのは米国の事業者だけで、対象に選ばれるにはいくつか条件もある。また、交換したパーツなどは壊れているものでもアップルに送り返すことが求められる。それでも、今回の決定が修理業者と消費者の勝利であることには変わりないだろう。
個人的に「修理する権利」に注目しはじめて約一年、その重要性への確信は日ごとに高まっています。今回はこの記念すべき(?)イベントを祝して、なぜいま「修理する権利」が重要なのかを考えてみたいと思います。
なぜ修理はラディカルか──社会的な行為として「修理」を考える
社会はデザインをどう位置づけ直すか
参考資料
Appleはどのように修理を「拒んで」きたか
出典:"Apple’s Diabolical Plan to Screw Your iPhone"
手元に
iPhoneがある方は、底面の
充電ジャックの両脇にある小さなビスをよく観察してみてください。ビスの穴が星型になっていることに気づくはずです。もしあなたがiPhoneを物理的に修理したければ、まず最初にドライバーでこのビスを外し、筐体を開く必要があります。しかし、
星型のドライバーを持ってる人なんているんでしょうか?
持っている
そういえばiPhoneは
非防水だっけ?
ねじ穴があるということは防水性がなさそう
TORQUEのようにバッテリー交換可能な防水スマホもあるから何ともいえないけど
耐塵防水スマホのように、取り扱いに技術を有するものは、たとえ修理する権利があったとしても修理のしようがないのでは
サードパーティの業者が修理できるようにする、というのもこの権利の範疇に入るように思います
それでいうと今もiPhoneの修理業者とかあるな・・
この特製ビスは、端的に言えば「ユーザーがiPhoneを分解しにくくする」ことを目的にデザインされたものです。Appleといえば自社の修理サービスを"
ジーニアスバー"と名付けてブランディングするほど行き届いた修理サービスをウリにしてきましたが、その裏側にはユーザー自身による自主的な修理を徹底的に否定する「デザイン」が施されているわけです。
天才酒場(直訳)
それだけではありません。タッチボタンをサードパーティ製のものに付け替えると発生する「
Error 53」、ユーザーによるバッテリー交換に警告を発する仕組みなど、Appleはあの手この手でユーザーやサードパーティによる修理を防ぐ仕組みをデザインしてきました。
しかも、こうしたAppleの「
アンチ修理」の戦略は、優れた
マーケティング手法の最たる例として長くもてはやされてきました。それは端末の「旧式化」を作り出すことで、ユーザーの買い替えを促すきっかけとしても機能してきたからです。またAppleほど大規模かつ徹底的なものでなくとも、「アンチ修理」の戦略は殆どあらゆる家電製品メーカーの
デファクトスタンダードになっています(「自分で修理したものは保証対象から外れます」という趣旨の注意書きのない説明書を見たことがあるでしょうか)。もちろん、修理を拒む戦略はユーザーに不利益をもたらすばかりでなく、有害な金属を含む
e-scrap(
廃棄電子製品)を不必要に生み出すことで、地球環境に深刻な負荷を与えるものでもあります。
マーケティングの教科書にケーススタディとして載ってたりするのかな?
理由
ユーザーに買い替えを促せる
ユーザーに不利益をもたらす
買い換えなければいけないから
一概に不利益とも言えなさそう
環境負荷
こうした状況の中で構想された「
修理する権利」は、一言でいえば「
購入者が製品を自分で修理する権利」です。あたり前のように思えるこの文言ですが、すでに見たように、近年私たちが購入する電子製品は自分で修理できないことがほとんどです。複雑なデザインで修理が難しい、というのは可愛い方で、既に見たような
修理を拒むデザインもあれば、最悪の場合そもそも製品自体に「修理」の可能性が考慮されていない場合もあります。このような、いわば企業による「修理の独占」とでも呼ぶべき状況への反対運動として、「修理する権利」は位置付けられるでしょう。
修理を拒むデザインの他の例ってあるかな
ニンテンドースイッチのコントローラーも星型ドライバーだったような
ハックしようとすると自信を破壊するような機能のついたガジェットがあったはず・・
はめ殺しとか接着してしまう組み立てなんかは、意図しているかはともかく修理しづらくなりますね
改造上等
なんとなく書いたけどここで修理でなく改造を使ってしまった
「
改造する権利」というのを主張している、さらに急進的なグループもいます。
改造は問答無用で製造業者のサポート外になるように思われるが、「改造する権利」は「改造したものもサポートしろ」と訴えるのがミソ
改造できるなら修理もできるでしょうという気持ち
公式でModが用意されているゲーム
コーエーテクモの太閤立志伝のPC版でイベントコンバーターはあった
でもこれは修理・改造の領域ではないな
MODコミュニティをサポートするようになったメーカーやプラットフォーム
Steamワークショップ
そもそも出自がMODである有名作品
ソフトウェアで言うとScrapboxの拡張とかもそうか
MinecraftはMOD作成のためのAPIを作ることをかなり初期にやったゲームかな
修理・改造で困るのは保証の問題
この例はHACKする余地は残しつつ、HACKすると補償はしないよ、というのをハードウェア的に実現している
インスタコードはハードウェアバージョンアップのオプションとして自身で改造するというオプションを公式が提示している
バージョンアップ対象者はクラウドファンディングとその後の初期ロット購入者で、アーリーアダプターであるため、手厚いサポートをしたいということだと思う
料理人が包丁を研いだりするのもこの例かな
「包丁の刃はメーカーが研ぎます、一度でも自分で研いだらメーカー研ぎの権利を失います」という世界線もありか
購入者がプロダクトを修理できて当然、という場合もあるかも
そもそも「修理できる人しか扱ってはならない」というような
より専門性が高い、あるいは危険、ピーキー
電気を使用したり
楽器(とくに打楽器)は太鼓類ならヘッド等が消耗する前提だしそれによって音色もフィーリングも変わってくる
奏者が簡単に交換できるが、修理というよりカスタマイズ的な意味合い?
弦楽器も同じ
音大に行くと専攻楽器の修理や調整やメンテナンスについて学ぶ時間がある
PS4は自前で記憶装置を交換するようなサポートが公式であった
SSDに換装するのが人気
そもそもは2001年のアメリカで、中古自動車の販売業者が立ち上がったことから始まったこの運動。現在ではすでに20の州が「
修理する権利」のコンセプトに基づく法律を制定しています。(2019年9月現在)
この「
権利」ってどう構築するんだろう
基本的には消費者保護を目的に、企業に対する規制法を制定することによって実現される、という形かと思います。
アメリカではそもそも「
マグナソン・モス保証法」という、企業によるアフターサービスにかこつけた
セカンドマーケットの独占(具体的には正規品を買わないとサポートしないという契約書を新車の購入時にサインさせるなど。
抱き合わせ商法と呼ばれる。これはつまるところ、ある製品を購入することが必然的にほかの製品を購入することとバンドルされてしまうタイプの商取引のこと)を禁止する法律が1975年にすでに制定されています。
現代の問題は、ここにソフトウェアが出てきて、なおかつ企業はソフトウェアの著作権を主張する(
DMCA:
デジタルミレニアム著作権法による裏付けがある。)などの法的戦略により、いわば
マグナソン・モス保証法を「迂回して」セカンドマーケットを独占しようとしており、新しいタイプの法的対応が必要になっている、というのがざっくりした整理かと思います。
著作権によって迂回できるというのが理解できていませんが、背景はわかりました。なるほど。
👍
著作権や意匠権を主張することで、消費者やサードパーティ修理業者によるリバースエンジニアリングや修理・改造を犯罪化し、抑止するという企業の戦略を指します。これは正規品や正規サポートに消費者を誘導することになり、結果的に抱き合わせ商法が成立するのですが、マグナソン・モス保証法は抱き合わせ商法を強制する「保証サービスのあり方」を規制するものなのでこれを抑止できない(そもそもそんなことが起きることを想定していない)というようなことです。
改造したソフトウェアが動かないようにする仕組み
なぜ修理はラディカルか──社会的な行為として「修理」を考える
しかし、だからといって「修理できないこと」にどんな問題があるのでしょうか? メーカーが不誠実だと憤るのはわかりますが、現実的には「修理できないこと」そのものに困ることはそう多くありません。結局のところ「修理すること自体が面倒」などと考えるまでもなく、安い新品が買えるならそうすることが殆どですし、なんなら「修理しなくてもよい」ことが前提になっているほうが安心できる気もします。
こうした「修理」に対する素朴な──しかし強力な──批判に応えるために、
ローズ・マカーリオのテキストをご紹介したいと思います。環境保護活動への熱心な取り組みで有名なアウトドアウェアメーカー「
パタゴニア」のCEOである彼女は、現代における「修理」の価値についても踏み込んだ主張を行なっています。
>私たちは取り替えることが第一級である文化に暮らしています。車や洗濯機のような高価なものは当然のように修理しますが、主として新しいものを買いに行く方がより簡単で安価です。修理を避ける理由は他にもあります。みずから製品を修理すると保証が無効になると警告するラベル、あるいは自分たちで何かを修理するための情報や必要な部品を入手する手段がないことなどです。(出典:「修理は急進的な行為」)
まずはローズによる社会分析です。「取り替えること」すなわち「消費すること」に価値が置かれる現代消費社会においては、新品が簡単に手に入るがゆえに「修理」することの経済的合理性が小さくなるだけでなく、製品を作り出すメーカー自身によって、積極的に修理の可能性自体が摘み取られる状況が常態化しています。つまり現代における「修理」の困難さは次の二つの要因で構成されているのです。ひとつは修理それ自体の「割の合わなさ」、もうひとつは修理を拒むことそのものを意図した多様な──プロダクト、リーガル、情報、etc..──「デザイン」によって。Appleの事例はその筆頭でしょう。
ことIT機器においては、
ムーアの法則により、修理が必要な頃には型落ちになって使い物にならないというのもありそう
そしてIT機器の性能の向上は緩やかに頭打ちになってきているので、いまこそ修理に着目する時期なのかもしれない
chrome bookとか特にですが、
PCがマイコン化しているような感覚がありますね。人間が必要な性能は満たすようになってきていて、量産してと安定性を高めてほしい
PCがマイコン化、気になる。もう少し説明が欲しいです
自分の想像するマイコンとどうも違うもの?
LEDをチカチカさせたり、モーターを制御したり、センサーを繋げたり・・
「特定の計算専用のロジックICを色々使い分ける状態」から「汎用の計算を行うマイコンでなんでもやる状態」への変化みたいな?
こうした状況を前提とした上で、ローズが焦点を合わせるのは、それがどのような社会を作りだすのか、またそれがもたらす最終的な破局から逃れるにはどうすべきかという方策です。
>こういった状況が作りだすのは製品の所有者の社会ではなく、消費者のそれです。そしてそこには違いがあります。所有者はその購入物に対して適切な手入れから修理までの責任を取るという力をつけます。一方、消費者は入手、製造、廃棄という生態系の破産へと私たちを追いやるパターンを繰り返します。(中略)集団的な消費のフットプリントを減少させることに必要なのは、製品を作る会社とそれを買う消費者が責任を分かち合うことです。(出典:「修理は急進的な行為」)
出典:「修理は急進的な行為」
「修理」という行為には、ともすれば個人的な活動というイメージが付きまといます。それがDIY(
Do it yourself = "自分でやれ")文化の一画を占めていることもその遠因のひとつかもしれません。しかし、物事の成り行きを個人の能力に帰着させる言説は、不毛な自己責任論("できない奴が悪い")へと容易に裏返ってしまいます。その点ローズが白眉なのは「修理」を、購入者が身につけるべき能力と考えるものでも、あるいは企業によって果たされるべき責務と考えるものでもなく、企業と購入者の双方が分け合う責任のもとに位置付けたことです。製品に関するこのユニークな、いわば「
修理の社会モデル」は、企業と購入者を対立的ではなく協力的な関係に置くための努力を双方に求める、切実な呼びかけに聞こえます。こうした主張の背景には、ローズ自身の私企業のCEOという立場も関係しているでしょう。
以上を踏まえれば、ローズが文章につけた「
Reapir is a radical act(修理は急進的な行為)」というタイトルにも頷けるはずです。企業の責任論や消費者の能力論という単純なモデルを超えるものであるという点で、「修理」にまつわるローズの提案がより困難な道のりを目指していることは間違いありません。しかし、それが繰り返す「消費社会」のサイクルから抜け出すための意欲的な提案であることもまた、間違いないでしょう。彼女が論じる「修理」の射程は、企業と購入者(所有者)の新たな責任分担を通じた、ある種の社会変革にまで及んでいると言えます。「修理」の責任をひきうけることは、「所有者の社会」に移行するための切符なのです。
ものづくりに興味を持つという点で修理や再利用は有益な気がするが、修理する権利のない製品ばかりだとそういうものに触れる機会が得ることが減る気がする
複雑化する製品と、"デザイン・ジャーナリズム"の重要性
とはいえ、理想論だけでは話は進みません。必要とされているのは既に、メーカーと所有者が製品への責任を分有するための仕組みを作り上げる実践です。その具体的な取り組みの事例として「
iFixit」があります。「修理方法のWikipedia」とでも呼ぶべきそのサービスには、iPhoneのフロントガラスの交換方法から、破れたウェットスーツの繕い方までが手広く揃っています。修理する方法自体を集合知的にアーカイブしてしまうという、直接的な行動の潔さが魅力です。実際にパタゴニアも、自社のウェアの修理方法をiFixitに掲載することで、ローズの言う「責任の共有」をメーカー側から実践しています。
出典:iFixit
iFixitが行なっている興味深い実践のもう一つは、デジタルデバイスに対して行う「
リペアラビリティ・スコア」の格付けです。発売されたばかりのデバイスを片っ端から分解・再構築し、それがどれだけ修理しやすいか / 修理が想定されているかを検証してゆくこのコーナーは、SNSでもよく話題になるiFixitの名物企画です。
>2016年製のAirPodsは接着剤で接合されており、分解するにはパーツを破壊する以外方法がない。Apple自身にも修理は困難であろうというお粗末さ。リペアラビリティは10点中0点。(出典:iFixit)
>2019年に発売されたばかりのFairphone 3は、全てのパーツを簡単に交換可能な携帯端末。販売元のFairphoneは、パーツごとの販売まで手がける。リペアラビリティは堂々の10点中10点。(出典:iFixit)
「製品を分解・再構築する」というシンプルな、しかし目を引くコンテンツが「修理する権利」の認知度の高まりに寄与した部分は大きいはずです。それは製品の「
修理しづらさ」を可視化する事で、企業によって「修理する権利」が毀損される物的な有様を、これ以上ないほどわかりやすく伝えています。こうしたコンテンツ群を通じて、活動家たちは少しずつ、しかし着実に「修理する権利」がいかに重要かについてのコンセンサスを作り上げてきました。「リペアラビリティ・スコア」が企業による製品開発を監視することで、「製品の複雑化」の問題が常に批判の目に晒される状況をプロデュースする。iFixitはこれらの直接的な行動でもって、自分たちが望むデザインと人間との関わり方を作り出そうとしているのです。
やや本論からはそれますが、こうしたデザインについての
ジャーナリズムとでも呼べそうな活動が成立しているという発見は、個人的に「修理する権利」を追いかける中で得た思いがけない収穫でした。それは現代社会にとってのデザインという存在そのものが、批判的に読み取られるべき思惑や構造を抱え込んでいることの証左であるように思えたからです。ますます拡大してゆくであろう複雑なデザインの領域を監視する「
デザイン・ジャーナリズム」の実践は、「修理する権利」をモデルケースとして、今後さらに必要とされてゆくのではないかと考えています。
社会はデザインをどう位置づけ直すか
以上、「修理する権利」を検討しつつ、「デザイン・ジャーナリズム」の必要性の提言にまで論を進めてきました。最後にこうした動きが、変化しつつあるデザインの役割にもたらす変化の方向性を少しだけスケッチして、話を開きたいと思います。
あらためて現状を振り返ってみれば、今回Appleから引き出した譲歩が大きな一歩であることは間違いないものの、Appleが修理の主導権を握る状況に依然変化はありません。しかし「修理する権利」は、
CCライセンスを含む古典的な独占禁止法の一群や、プライバシーの権利に基づく
GDPR(
EUデータ保護規則)とは異なり、購入者に不利に働くデザインそのものを政治的課題に設定するものです。それが直接影響を及ぼす範囲はまだ限定されているものの、デザイナーが自らの実践がもたらす結果そのものについて、今後注意を払う必要性が増してゆくのは確実でしょう。特にプログラマは、自らが比較的容易に生み出しうるものについての倫理的な責任を肝に銘じる必要があります。またこうした懸念は、情報技術の活用が喧伝される他のデザイン領域においても同様です。個人的には特に
都市計画領域における情報技術の濫用に危機感を抱いていますが、論をまたぐのでこちらについては別稿に譲ることとします。
いずれにせよ、デザインそのもののあり方を中心に据えた「修理する権利」の登場は、社会におけるデザイン位置付け自体の大きな変化を感じさせるものです。ローズが主張する「消費者の社会」から「所有者の社会」への移行が、製品を媒介とした企業と購入者の新たな関係を模索するものであったことは、その意味で象徴的なものであったのではないかと思います。こうした社会におけるデザインの変化が有するであろう歴史的な意義のありかに考えを巡らせつつ、今後も「修理する権利」の展開を注視していくつもりです。
その後いろいろ調べているので、近いうちに増補改訂版を出したいと思っています。
というか今書いてる修論のテーマ
あと上の文章のなかに自由にコメントしてみてほしいです。どうなるか興味ある。
おもしろいことになってます。うれしい
自分は「修理する権利」に出会った時、当初はかなり興奮して、関連するテキストを読み漁り、このブログを書き、結果として修士研究のテーマにすえるまでになりましたが、研究を進めるうちに、
修理する権利は取扱注意だなという気がしてきていて、むしろ関心があるのは
日本社会への修理する権利のローカライズに移ってきています