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窓の外のノイズ
> 時事問題のたぐいは月並で不愉快なものかもしれないけれど、前に進むにしても、後に退くにしても、とにかく自分がどこに立っているかを、わからせてはくれる。そして、古典を読んで理解するためには、自分が「どこに」いてそれを読んでいるかを明確にする必要がある。さもなくば、本自体も読者も、時間から外れた雲のなかで暮らすことになるからだ。古典をもっとも有効に読む人間は、同時に時事問題を論じる読物を適宜に併せ読むことを知る人間だと私がいうのは、こういった理由からである。
> 理想をいえば、時事問題その他は、窓のそとの騒音ぐらいに思えるのがいちばんいい。窓のそとでは交通渋滞や天候不順があることを知りながら、部屋にいて古典の言説の透徹した格調たかいひびきに耳をかたむける、というのが。しかし、音声をいっぱいにあげたテレヴィジョンみたいな時事問題の喧噪に満ちた部屋にいて、遠くに聞こえる轟音ほどに古典の存在を感じられるなら、それでもずいぶんとましなのである。では、こうもいってみよう。
> 13 時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である。同時に、このBGMの喧噪はあくまでも必要なのだ。
> 14 もっとも相容れない種類の時事問題がすべてを覆っているときでさえ、BGMのようにささやきつづけるのが、古典だ。
ノイズの話
> イタロ・カルヴィーノのは「なぜ古典を読むのか」の中で、ポップに関わる内容のことを「時事問題」と呼び、それを騒音、「窓の外のノイズ」と例えた。そしてその BGM は絶対に必要なものである、と。なぜなら、それは、自分が今どこにいるのかを指し示す指標だから、と
> イタロ・カルヴィーノが 窓の外のノイズ で示したのは、インターネットのテクノロジーのレイヤーではなくて、人間の認知のレイヤーで、どうやってアテンションを守るのか、という話で、その領域については何世紀も前から人間はこの課題に立ち向かっている。ここで述べられている 古典 というのは文字通りの蜘蛛の巣がかかったような、カビ臭いあの古典を指しているんではなくて、自分のアテンションを守るための方法を示している。
> 「窓の外」は自己の外側であったり、ローカルの外側であったりする