シグナルの話
孤独とは、他人の心からの入力に対して、自由である主観的状態のことを指す
> As Kethledge and Erwin explain, however, solitude is about what’s happening in your brain, not the environment around you. Accordingly, they define it to be subjective state in which your mind is free from input from other minds. https://www.amazon.co.jp/dp/1632866315
さて、
kzys サンはノイズから、ではなくシグナルから距離を置く、という方向の話をしていて、それをずっと続けている。2009からとのことなので筋金入りだ。
2009というと自分はまさに dsbd に深く深く潜っていたころ。出自が違うからスタイルが違うのは当然なのだけども、自分自身はそういう場所がベースになっているので全然違う感覚がある
日本列島というのはアジアの東の端っこで南と北をつなぐ橋のような地理的条件を持っていた。氷河期には大陸と地続きだったりごく近い距離にあった。辺鄙な場所であったのかというとそんなことはなくて実際には多くの人を惹きつけて止まなかった痕跡が残っている。日本列島は南と北の文化の交流点だった
> 遡ること縄文時代、八ヶ岳南西麓は日本有数の集落群があったことで知られている。尖石遺跡は青森、北海道との交易があったことがわかっている。その交易のネットワークとなったのが河川だった。日本海から信濃川という経路と、太平洋から天竜川という経路があった。
> 網野善彦は朝鮮から北陸、日本海から信濃川を経由して高麗人が甲府盆地にやってきたと考えている。川や海は人々を分かつ障壁ではなくて、交流するためのネットワークだった、としている。
> そして甲府盆地は、陸路は東山道と東海道の連結点になっていて、河川は太平洋から連なる富士川に流れ込むたくさんの川が連結して膨大なネットワークを構成していた。
> ここで少しスケールを大きくする。もともと日本列島は東アジアの北と南をつなげる陸橋だった。そこは北と南の文化が交流する場所だった。人々が出会う場所には交易が生まれる。交易がある場所には情報が集まる。情報が集まる場所には人が集まる。ここに正帰還ループが発生する。日本国という形が出来上がるずっと前からそういう場所だったわけだ。
ミハイ・チクセントミハイはフロー理論において人間は他者との対話においてフローを発露することがある、と言っている。楽しいことがフローを呼ぶと思われているけどもそんなに単純ではなくて、人間は食事をするとき、寝るとき、フローには至らない。
スケールを拡大する話(もしくは、交流とフローの話)。
> ミハイ・チクセントミハイは「フロー体験入門」で、人は他者との交流でフローを体験すると言っていた。フローは「チャレンジ」と「スキル」のバランスの中で発現するからだ。未知の文化との交流はとてつもなく大きく刺激的なフローを生んだに違いない。
> tjar の選考会に合格したが抽選で落選となった人が tjar から3日遅れのスタートから7日間19時間07分でゴールしたそうだ。興味深かったのはその方の目的の一つに「 tjar に参加した選手たちが「感動した」と発言し、大会に魅了されているが、自分は感動するのか、魅力を感じるのか?」というのがあって、そして「感動はなかった」と言っていたことだ。
> ジョー・ヘンダーソンは "think fast" の初めの章の一つで、「友をつくる」といって、他者との関係について述べている。 "Competition" という語はラテン語に起源があって "com-" 共に、 "petere" 求める、追い求める、という意味がある。自分と他者との関係において初めてコンペティションは成立する。そしてコンペティションにおいては順位が1番になった人だけではなくて、全ての人が勝者となりうると。
> 望月将悟サンは田中陽希サンとの対談のなかで「「追われる」という感覚が強かったんですよ。でもだんだんそういう気持ちも弱くなってきて、一緒に戦う人がいるから自分も頑張れるし、抜かれないように一歩一歩前に進むんだと思えるようになってきた」、「逆にレースのようにライバルや大会スタッフが近くいると、あまり余分なことを考えないですむからね。選択肢が限られていて、極端に言えば、「進む」か「止める」かだけ」と言っている。
人間は感情の生き物である。感情は本能に関わるものだ。共感というのは他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。共感というのは脳内の現象である。そもそもなぜ共感、共感覚があるのか。自然淘汰において人間が獲得してきた、つまり共感を持つことによって、生存競争に優位性があったということだ
> 「脳の中で、感情の形成に関わる部位のうち、一番重要なのは“扁桃体(へんとうたい)”です」
> 扁桃体は、脳の左右にある神経細胞の固まり。アーモンドのような形をしているので、扁桃(アーモンドの和名)という名前がついたという。「扁桃体は、何かを見たり聞いたりしたとき、それが生存に関わる重大なものであるかを一瞬のうちに評価します」
> 最新の認知科学の発展によって 感情は単なる反射ではなく 非常に複雑で柔軟性のあるシステムだと 分かってきました それは私達が受け継いだ 生物学的特長と 今 生きている文化の双方に 影響を受けます それは認知的な現象なのです 身体によってだけでなく 思考や概念や言語によって 形作られるものです
> 共感あるいは同感は、人の高度な社会生活を可能にする最も基本的、原初的な道徳感情として、古くから議論されてきました。アダム・スミスは、『道徳感情論』において、他者に同感を感じ、他者から同感を得るように振る舞うことをもとに社会に秩序が生まれると論じました。ダーウィンは、『人間の進化(由来)』において、共感について「社会的本能の最も重要な一要素として自然淘汰によって発達したことは、疑いえない」と述べています。
> 過去10年ほどの間に、人間の脳が情動感染(emotional contagion)を受ける仕組みが明らかになってきた。まるでワイヤレス・ネットワークのように人の感情を他者に伝染させるのは、脳のミラーニューロンだ。この微細な神経細胞のおかげで、私たちは他者の感情を理解したり共感したりできる。誰かのあくびが目に入ると、ミラーニューロンが作動して自分もあくびをしたくなる。部屋の反対側にいる疲れた様子の人を見ると、自分の脳もその疲れを感知する。
> 最も重要な点は、個人が他者や世界と切り離されていると捉えるか、もしくは連続的につながっていると考えるか、ということだ。
共感によって何を得ているのか。なにを共有しているのか。そしてその実態はなんなのか
> 共感知。グループとして共有している感覚。もともと人類はごく少数のグループ(群)からなる集団で活動する種でした。そういった種の生存に関わる機能として共感知に優れることが優位に働いたというのはあるかもしれませんね。そうすると、現代は当時と置かれている環境、スケールが違うので機能として齟齬が生じている可能性はあります
> 信頼は社会に不可欠です。種として、人間は互いに信頼するべく、つながっています。社会は信頼なくして機能することはできません、そして、私たちがほとんどそれについて考えさえしないという事実は、信頼が如何にうまく機能するかの尺度です。
> 2012年に、私は信頼と安全についての本、「信頼と裏切りの社会 (Liars and Outliers)」を書きました。その中で、私たち人類が信頼できる行動を奨励するために使う4つの非常に一般的な方法を挙げました。最初の2つは道徳と評判です。問題は、それらが特定の人口規模にしか対応できないことです。原始的な方法は小規模なコミュニティには十分でしたが、大規模なコミュニティには委任とより形式主義が必要でした。
> 3つ目は社会制度です。社会制度には、集団の規範に従って行動するように人々を促す規則や法律があり、そうしない人々に制裁を課します。ある意味では、法律は評判を形式化します。