常識による信頼モデル
ドアロック
フェンス
警報システム and 警備員
> のような言説を見るたびに、それ自体が「常識」というものの存在を否定してしまっているように見えて、自己言及のパラドックスを感じておもしろい。
> common sense っていうと全然違うニュアンスになりますよね、なんとなく。共感知。グループとして共有している感覚。もともと人類はごく少数のグループ(群)からなる集団で活動する種でした。そういった種の生存に関わる機能として共感知に優れることが優位に働いたというのはあるかもしれませんね。そうすると、現代は当時と置かれている環境、スケールが違うので機能として齟齬が生じている可能性はあります。なんてこと言ってみたり(適当)
> 信頼は社会に不可欠です。種として、人間は互いに信頼するべく、つながっています。社会は信頼なくして機能することはできません、そして、私たちがほとんどそれについて考えさえしないという事実は、信頼が如何にうまく機能するかの尺度です。
> 2012年に、私は信頼と安全についての本、「信頼と裏切りの社会 (Liars and Outliers)」を書きました。その中で、私たち人類が信頼できる行動を奨励するために使う4つの非常に一般的な方法を挙げました。最初の2つは道徳と評判です。問題は、それらが特定の人口規模にしか対応できないことです。原始的な方法は小規模なコミュニティには十分でしたが、大規模なコミュニティには委任とより形式主義が必要でした。
> 3つ目は社会制度です。社会制度には、集団の規範に従って行動するように人々を促す規則や法律があり、そうしない人々に制裁を課します。ある意味では、法律は評判を形式化します。
信頼モデルとして「常識」を使っている?
上記でいうところの「道徳」、「評判」システムと「社会制度」システム(「規則」&「法律」システム)の中間あたり
「道徳」、「評判」システムというのは、たしかチンパンジーやボノボにもみられるはずなので、原始的なモデルだと思う
「道徳」、「評判」システムにおいても制裁は存在する
チンパンジーやボノボにおいても制裁が存在する
死をもって、という場合もある
道徳というのは感情に属する
「常識」という場合のそれは、「規則」ほどきつい縛りではなく「規範」といったものか
相手が、グループで
共有された「常識」という
ルールにしたがって振る舞うはず、といった「信頼」モデル
common sense だともっと「道徳」寄りな気がする。感覚、感情
コモン・ローとシビル・ロー
という言説は、信頼が揺らいでいる様子、と言えないか
> 最初から「常識なんてものは存在しない」という前提で生きていく方がお得なんじゃないかなあ、と、歳を重ねるほどに強くそう思うようになっていく
というのは、君たち(誰たち?)が狭義において「制度」や「システム」による信頼に従う
世界で生きていることを暗に意味しているのではないか
狭義における世界とは:IT業界とか、某企業とか、プログラミング界隈とか、そういうのを指します
以下の引用は
小津安二郎のものといわれている、いわゆる名文
境目があやふやな感じ
伝言ゲームが行われたときに一番最初に入れ替わるくらいあやふやな単語であると思われる