『読んでいない本について堂々と語る方法』についての断片集
まともに読んでいないクセにたくさん言及していた
2021/07 ころから今までに書かれたこと
> 古文書から事実を発見しようとする考古学者、聖書から教訓を読み取ろうとする進学者、数式から原理を発見しようとする数学者、という読み方に対する「文学的な読み」。それは書かれてる文章からの自由さを意味している。
> それは行から行へ、ページからページへ、自在に意味をつなぎ合わせる自由だったり、作者の意図に原子レベルまで肉薄したり、太陽系の彼方まで遠ざかったりする自由だったり、本の「冊」という単位を飛び越えてかつて世界に存在した本に接続したり、いつかきっと世界に誕生する本と接続する自由だったり、そういう自由のことだ。
> 私たちは読んでいる最中でも 、片っ端から忘れていくし、読んでいる時に自分のフィルターをかけて内容を歪めながら「理解」していく。
> その意味で、本を読むことや本について語ることは対象への没入ではなく、常に自己に関わるある種の批評的な行為である。
> 書物は私たちの自己の中で新たに生まれ直すといってもいい。
> 「未読にも段階がある」という宣言がされているが、それは裏返すと「読了にも段階がある」ということ
> 未読であることと読了であることの違いは、実はほとんどない
> 同様に、積読山脈においても物理的に存在する以外に概念的に積まれているものが存在する
> 未入手であることと積読であることの違いは、実はほとんどない
> 日々の記録(月々でも週でもいいけど)として、「買った本」の記録は残せるけど、「読んだ本」の記録は残しづらい。いや、そもそも「買った本」であっても難しい。どういうことかというと、
> 「買った本」はあくまでも「まだ読んでいない本」であって、それが「買った本」であろうが「買ってない本」であろうが、「まだ読んでいない本」という意味ではそこに差が全くないから。
> で、「読んだ本」はというと、ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』にあるように、「読んだ本」と「読んでいない本」の間に明確な差はないのである。
> 柴崎友香の書評(管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』)にこうある。
> 「タイトルを読んだだけでももう読んでいる、そして、最後まで読んでも読み終わらない、」
> 「本棚に並んだ背表紙を見ているだけでも、読んでいる、」
> 「本に「冊」という単位はない。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな」
> wikipedia のオデュッセイアからあらすじを切り出して、体裁を整えている。
> ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」によると、「読んでいない本」には「読んだことはあるが忘れてしまった本」が含まれるそうだ。正直な話、たった今、読んでいる本であっても読んだ先からどんどん忘れていっているに違いない。この「今週末の良かったこと」を書いた先からどんどん忘れていっているように。