翻訳=世界=文学
翻訳=世界=文学
ヘレン・ケラー「わたしの生涯」
> 二十世紀の真に驚くべき書物の一冊である『わたしの生涯』
> この時初めて私はw-a-t-e-rはいま自分の片手の上を流れているふしぎな冷たい物の名であることを知りました。
> それ自体まったく無音である、サリバン先生の指先が彼女の掌に残す運動の痕跡だけを頼りに、彼女にとっての世界の分節がはじまる。
運動の軌跡
> あとは言語自身の運動力・増殖力のようなものによって、ヘレンの世界はどんどんひきずられるように拡大してゆきます
言語の運動力
言語の増殖力
> ポパーがいう世界1とは、ありのままの事物の世界、モノの世界のことです。
> 世界2とは、人が知覚を統合して作り上げる表象の世界。
> 世界3とは、人の精神が共同で作り出す間主観的な世界をさし、言語も、あるいは科学も、思想も、そこに入ります。
> そのひどく異なった世界2を通過しながら、ヘレンは触覚に翻訳された言語だけを頼りに世界3の学習をはじめ、
触覚に翻訳された言語
> 言語とイメージの構築物である「世界」に、映像的イメージを欠いたまま触覚だけを使い、触覚的に翻訳された言語に特化したかたちで果敢に挑んでいったヘレンの冒険を思うと、言語という現象にはどこか怪物じみた側面があると、われわれも改めて思わずにはいられません。
言語という現象の怪物じみた側面
このあと、内容は言語と翻訳の話に移る
バベルの塔の神話
旧約聖書「創世記」第11章
> つまり他の集団に対して威信をしめそうとするその集団を地表に散らし、かれらの言語をいくつもの互いに通じない言葉の群れへと砕きました。混乱を与えた。そしてこの混乱を、ユダヤ=キリスト教の伝統ではずっと人類の災厄だと考えてきたのです。それに対して、いやそうではないその混乱はよいことだったのだとはっきりといったのが、批評家のジョージ・スタイナーでした。
バベルの後に 言葉と翻訳の諸相
> ぼくも言語の多様性・多数性を、無条件によいことだった、そして守るべきことだと考えています。いや、よいことだったというか、それはヒトという種が地球上のこれだけ多様な自然条件の中に拡散し生き延びるための、絶対条件だったと思います。
> 文学的な読みとは要するに、その物語が現実の写しであろうが、あるいは何らかのたとえ話であろうが、そうしたレベルの差自体を自由に選べるという意味です。あるいはそうした複数の可能性を、同時に意識しつつ読むということです。
> 文学的な読みとは、そうした解釈の水準そのものの設定が、読み手にまかされている場合をいいます。
古文書から事実を発見しようとする
考古学者、聖書から教訓を読み取ろうとする神学者、数式から原理を発見しようとする数学者、という読み方に対する「文学的な読み」。それは書かれてる文章からの自由さを意味している。
それは行から行へ、ページからページへ、自在に意味をつなぎ合わせる自由だったり、作者の意図に原子レベルまで肉薄したり、太陽系の彼方まで遠ざかったりする自由だったり、本の「冊」という単位を飛び越えてかつて世界に存在した本に接続したり、いつかきっと世界に誕生する本と接続する自由だったり、そういう自由のことだ。
文学とはなにか