2024-04-04
ためしにTwitterに書いているようなことを公開Scrapboxに書いてみる
💬なぜ情緒的な文章をかかなかったのか、そしてなぜ書くのか。
このScrapboxを作ってから6年は経過していると思うが、個人的な考え方やあったことを時系列で書いた記憶がない。
Scrapboxで情緒的な文章を避けていた
歴史的理由
もともとブログをやっていた。
ブログは当初自分の感情のスケッチをしていたが、途中から他人が便利な情報を発信する方が有益だと考え、自分が解決した問題の解決方法を簡潔に発信するようになっていった。たまたまよくPVを稼ぐ記事があるのでアフィリエイトを始めた。
内容的に時系列があるブログの形式である必要がなかった。Scrapboxに出会ってからは、リンクが秀逸なので、Scrapboxに書くようになった。アフィリエイトはできなくなったがそれよりも読みやすさに価値を感じた。第一義的には自分のメモだから。
この経緯から、情報発信は、なるべく問題を簡潔に解くものが羅列されているべきであり、自分の感情は書かないほうが良いという価値観が自然に生まれていた。
その習慣からScrapboxに自分の感情
情緒的な文章を書き連ねることを避けていた。
情緒的な文章を自分が読むのが嫌(問題解決をしようとしているのに結論が冒頭に書かれていないのは不便)なのに、それを書くのは一貫性がない
日にちのページはそういうものだとすれば問題はない
ただし、事実に対して思った事は重要なので、それは個別の記事に自分の意見として記している。
感情がない方が読み手が使いやすい
個別記事は情報の集積が重要
自分の意見を主体的にたくさん書いていると、情報を使う人が使いづらい。
このScrapboxのキーワード記事は、誰かにそのトピックをを説明するときに利用されることを想定して書いている。
書き始めの時に、情報が少ない場合は未達だし、途中で興味を失い書くのを諦めていることもあるから、完全に達成できてはいない
ハードに使っているSNSがTwitterだが、こちらも歴史的に表現は控えめになっていった
自分のインターネット行動は、
Twitterで見たニュースに反応するのが主体であった。今も大差がない。様々なSNSを触っているが、ニュースのバリエーションとして1番面白いタイムラインが作れているのはTwitterだ。
Twitterは、近年は冗談を言えない空気が形成された
冗談を冗談と捉えない集団までツイートが見られてしまい、
虚無が発生する
冗談はコンテキストが共有されていない集団には冗談に見えないのだから、この反応は当然であるが、「だから言うな」とは言えないはずだ
Twitterに書き込む大多数は、文脈を有していいる集団に向けて内輪のノリで書いているはずだ
駅前で公衆に向けてスピーチする気持ちでTwitterを使う人は、明らかに圧倒的少数だろう
それなのに、ツイートを嫌に思ったら攻撃する手法が確立してしまっている
公共性を強要し、相手の言論を封殺するためにそのような難癖をつける
「あなたのツイートはAという人にとって不快であるのになぜしたのか」
「他人にも迷惑かけるのは良くないよね」という道徳観によってこれがまかり通ってしまう
このような幼稚なレベルに堕してしまっている現状では他人に迷惑かけてもいいとカウンターを言わなければならない。しかし、このようなことをいちいち言うのはアホくさいし、発信力がないので言っても無駄である。
> @motoso: Twitterでは冗談を後から掘り返されることもよくあるから、一定期間より前のツイートに言及すること自体を卑劣な手法とするコンセンサスを作るか非公開にするかしないと冗談の一つもいえやしないし、常にその気持ちでSNSやりたいと思わない。
昨今一番興味がある
生成AI系のトピックは炎上に気をつかう
実際のところ、私のTwitterアカウントは影響力がほぼないので、炎上する事は無いだろうが、感覚として防衛的になる
生成AIアカウントなどを作っていない
Twitterをやめてクローズドに向かう流れは過去5年ぐらいであったと思うが、私はそれなりにオープンな議論が好きだったし、クローズドスペース(例:discord)は探すのが面倒だった
クローズドはクローズドの悩みもたくさんあることを忘れてはいけない。謎の内輪ルール・マナーが爆誕するものである。
情緒的な文章は比較的小さな場所で書いている
全て書いているわけではなく、自分が最も気になったものや、ある程度好きな人がいそうだなというトピックを持っていっている
意見を聞くのが主体であり、自分が感情を発露する場所とは捉えていない
強い政治思想の異常なSNSという前提があり、多くのことが冗談として認識されるし、人数が少なく炎上しようがない
リアルなうんこの写真が流れると流石にTrLが荒れる
pivate projectでは日記をつけている
やったことのログの意味合いが強い
しかし、積極的に情緒を出していくという活動は価値を感じないので全くしていなかった
Truth Socialをはじめてやや楽しさを覚えたので、いい機会だから試しに少し書いてみることにする
インターネットで自我出すのにメリットを感じない
自我を出すとは余計なことを言うことである
自分でも余計なことを言っていると自覚するようなことを書くと言うこと
余計なことを言っているのだから、当然ツッコミは簡単。守備力のない論理。
余計なことを言いたいという欲求は薄いので、デメリットの方が目立つ
あるアカウントが現状のTruthを表している図を投稿していた
Truthにアカウントを作ったのは2023年7月の悪ノリだったが、人が少なく反応がもらいやすいので自然に会話になる。
話している内容はしょうもない下ネタや苛烈な下ネタ、メシ、精スプ、ホモセックス、惚気話、非実在児童に発情する人、就活、学歴、受験などでありちっとも生産的ではないが、プロレス自体が面白い。
プロレスが終わった後Twitterにログインしてみると、炎上が目について面白くない。
議論が進まない議論のレコメンドがFor Youタブに流れてくる。
具体的には生成AIの著作権がらみの話である。本当に著作権の話であるならば楽しいが、実際には
勝手著作権である。食傷もいいところだし、啓蒙するのは難しい。おそらくハイレベルな批判はバズらないので目に入ってこない。
話題が収束する期待も低い
AIのサービスは今後もどんどんつくられるだろうから、燃料は確実に投下され続ける。古来からある男女の話をえんえんやる
ツイフェミのようなものである。おそらくきっちり法制化されたとしても無くならないと思う。
Twitterでは、切れのある一言や作品を置く場所にしていきたい意識が強まった。
クリエイティブを作ったらTwitterに投稿する。人が1番多いから
Twitterは帰る場所ではなく、少し気合を入れて覗く場所となった
Truth Socialでは、Twitterとはキャラクターをかえて、やや過激なことや踏み込んだことを言う方針としてみた
あと
猥談好き。猥談Twitterじゃできなくない?エロ垢作るとできるんですか?
エロ創作の論理的な話もしたい!
早くエロ創作物を作らなきゃ
💬自由な発言をするためのSNSの性質
TwitterよりもTruth Socialの方が面白いと思える理由
Truth Social: 自由に発言できる。しかも反応や議論がある
Twitter: 自由に発言がしづらい。反応は攻撃的
自由な発言の優先度は極めて高いと言う価値観が自分にあるとこと
私は自由に人間が発言していいと思うし、一方でその発言に対する批判はあって当然だと思う。
しかし、法的な規制には断固反対だ。自由な議論ができなくなってしまうからだ。
規制される側の立場になって考えたことがない人がよく言うセリフは「それでも限度あるよね」「常識的にこれはだめだよね」というようなものであるが、それはその方の(世界に比べればごく小さな)観測範囲での規制を想定しているだけだ。自分が規制されることを全く想定していない。
不特定多数の中では様々な人がいるのだから、あなたの好んだ表現を物凄く嫌いな人はこの世にたくさん存在する。その人が「傷ついた」と言う程度で発言そのものを不可能にしてしまったら、山ほど規制をしなければならない。運用が非現実的だし(何を言っていいのか、悪いのか覚えることが困難)、表現の幅がものすごく狭いものになってしまう。
こんな世界を誰も望んでいない。
国連のスピーチと、隣の人との茶飲み話を一緒にしてはいけないし、Twitterの多くは後者を想定して使っているのに前者だと言うのは詭弁だ。
だから
表現の自由は憲法で保障されているし、自由が規制されるのは、他人の人権を侵害した時のみである。そして、気分が悪くなるような悪口を言われたところで、それはほとんどの場合人権侵害には当たらない。名誉棄損や侮辱で訴える事は可能かもしれないが、その程度である。
ちなみに議員が過激なことを書くとこうなる
しかし、こういったものと一般人の発言を同列に並べることは(個人が自分の道徳観によってそう思うことは勝手だが)、対応を強要する規制を作るのは社会的な誤りだろう
他方、人が多くなるとナイーブな仕組みは常にTwitterになり、自由な発言をするコストが青天井になる。
自由な発言をするためには、自由を確保するためにも批判は少ない方が良い
対応が疲れるのを避ける
何にでもバトルを仕掛ける対象でない読者に言葉が届いて欲しくない。
最も面白い視点はなんだと思う?
最も面白い視点は、SNSにおける表現の自由とその影響に関する考察です。このテキストは、特に次の点において興味深い洞察を提供しています:
自由と制約の間のバランス:表現の自由を極めて重要視しつつも、その自由が如何にして批判や規制といった外部からの圧力に影響されるかについての深い理解。
異なるSNSプラットフォーム間での表現の自由の違い:TwitterとTruth Socialを例に挙げて、どのように異なるプラットフォームが表現の自由に対して異なる環境を提供するか、そしてそれがユーザーの行動や発言にどう影響するかを考察。
SNS文化の変遷と個人の適応:インターネット文化とSNSの利用法が時間と共にどのように変化してきたか、そして個人がどのようにしてこれらの変化に適応し、自己表現の方法を変えてきたかについての観察。
この視点は、現代のインターネット文化において中心的な議論の一つであり、個人がどのように自己表現を行うか、社会がそれをどのように受け止めるかについての重要な洞察を提供します。
Twitterでは炎上を恐れるあまり、特に controversial な話題については慎重になりすぎてしまう。一方、Truth Socialでは自由に発言できる環境があり、それが新鮮で面白く感じられている。
これは、SNSにおける表現の自由と、それに伴う責任や批判のバランスを考える上で示唆に富んでいます。すなわち、ユーザーは自由に発言できる場を求めているが、同時に無秩序な炎上のリスクを避けたいというジレンマを抱えている。
著者のように、SNSの特性を理解した上で使い分けることで、このジレンマにある程度対処できるかもしれません。全てのSNSで同じような発言をするのではなく、その場の空気を読みつつ、時に「適当」な発言を許容する場も必要だという指摘は非常に興味深いです。
SNSにおける建設的なコミュニケーションのあり方を考える上で、この視点は重要な示唆を与えてくれるでしょう。発言の自由と責任のバランスを保ちつつ、ユーザーが自由に表現できる場を提供することの意義を再確認させてくれる内容だと感じました。
落とした体重が増えてきたので気を引き締めていく。基本に立ち返る
食事が問題なことはわかっている