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何もしない

目次
>はじめに──有用の世界を生きのびる
> 第一章 「何もない」ということ
> 第二章 逃げ切り不可能
> 第三章 拒絶の構造
> 第四章 注意を向ける練習
> 第五章 ストレンジャーの生態学
> 第六章 思考の基盤を修復する
> おわりに──マニフェスト・ディスマントリング:明白な解体

アテンション・エコノミーにたいする反抗行為として「何もしない」を実践するための本
現代はポジティブ・ケイパビリティが優勢であるため、意識しないと「何もしない」ことができない。
本書の「何もしない」は、『何もしないことでリフレッシュして生産性を高めよう!』といったたぐいの目的ではない。
むしろ生産性やアテンションエコノミーの支配から抜け出していくことを推奨する
「何もしない」ことで世界を積極的に感じるようになる
莊子の哲学、無用の用が根本にある
「はじめに」で、人間の役に立たない木が大木になるのエピソード
オークランドで一本だけ残った原生レッドウッドの「オールドサバイバー」がそれに相当する
世界から完全に逃げるのではなく、その場にとどまって拒絶をすることを推奨

誰もが起業家となることが可能となってきている現代では、むしろ労働時間の制限が無くなってしまった
24時間全てが換金可能なビラブルアワー(請求可能な時間)とみなすことができてしまう

全てに追いつくことは不可能
刺激が多すぎる時代では、情報のとりすぎは、食べすぎと同じ

成長レトリックへの解毒剤
p58
>健康やエコロジーの文脈では、成長に歯止めがきかないものはたいてい寄生性があるだとか、がん性のものだと疑われる。それなのに、私たちが身を置く文化では、繰り返しや再生よりも、目新しさや成長がかけがえのないものだとされる。
何もしないは、保守のための漸進的変化に近い
加速主義では急激な成長、進化が良しとされるが、そういった成長レトリックの行き過ぎは癌の存在と近くなる


> 第二章 逃げ切り不可能
デジタル・ミニマリズム、デジタルデトックス
完全に断ち切るのは不可能
折り合いをつけること
エピクロスを見習う
ピーター・ティールの言葉「民主主義と自由は相性が悪い」
公海上に海上型コロニーをつくろうとしている
筆者は、このアイデアには批判的 p92
>いささか考えの甘い、浅はかなものに思われる
ユートピア建設指向と似た臭いを感じる
1960年前後のアメリカにおける、コミューン文化、ヒッピー文化は逃避の一種
しかし、逃避先のコミューンであっても、小さな支配関係が起きたり生産性への執念が起きていて空中崩壊していた。
>残念ながら彼女は次のような結論に至った。「このような逃避につきものの特徴は支配だ。つまり、人間が法的、政治的に共生できるのは、一握りの人間だけに命令を下す特権が与えられ、残りの人間はそれに有無を言わさず服従させられる場合だけという概念だ」アーレントがこの誘惑の起源をたどって行き着いた先は、プラトンと、フレイジャーのように理想のイメージに沿って都市を構築する哲人王の現象だ。
今生きている世界への参与の仕方を考える
「やるかやらないか」ではなく「どうやって」が大事
アテンション・エコノミーをやるかやらないかの二項対立で選ぶのではなく、要はバランス
常に接続していると、接続先の社会やコミュニティの考え方が自動的にインストールされている
常時接続をやめることで自分で考えざるを得ない状況になり、自動インストールの考え方が薄れていく
「距離を取る」ことで自分の目で世界を視る


> 第三章 拒絶の構造
短編小説代書人バートルビーに登場するバートルビーの言葉「しないほうがよろしいのです」という拒絶
ストライキは不公平な労働環境への拒絶
しかし、余白・余裕が無いとストライキができない
一時的に労働を失うと生きていけないギリギリの財政状態では、ストライキができない
貯蓄率が減ってきている時代では、労働者側の立場が弱くなる
解雇通知を恐れるあまり、賃上げを要求したり、仕事内容の変更要求が出せない
デジタル・ミニマリズムになるのにも、生活に余白が必要
ソーシャルキャピタルが十分にあるからこそ、SNSをやらなくても平気な状態になれる
拒絶の方法は、注意を向けるのをやめることもあれば、注意の向け方を変えることでも拒絶できる
p156
>もし私がある広告を見るよう強制されても、その広告を出した企業は私がそれをどうやって見ているかまでは必ずしも把握していないということだ。もしかしたら、私はその広告をじっくりと、相対する敵の本性を知ろうとする合気道の選手さながらに観察するかもしれないーーさらに言えば、世の中の腐敗を隠遁生活の内側から観察し続けたトーマス・マートンのように眺めるのかもしれない。生産的になっているふりをして、大瓶をせっせと転がし続けたディオゲネスのように、私の「参与」は一筋縄ではいかない。
目に入る場所、耳に聞こえる場所全てに広告が侵入してくる環境では、「広告を見ないこと」は難しいが、「広告の見方を変えること」はできる
「こんな広告を出す会社の商品は買わないぞ」という参与の仕方もある


> 第四章 注意を向ける練習
生まれ育った街が何の特徴も無い平凡な街は、それは自分にとってもコンテキストが無いだけだった
思い出がある人々にとっては、意味のある風景になっている
ジョン・ケージ: 4分33秒を聴いた後には、街角で聴こえてくる音の解像度が上がったというエピソード
注意散漫について p182
アテンションエコノミーで活用されている説得的デザイン、心理学を活用したデザイン、ザ・ダークパターン ユーザーの心や行動をあざむくデザインと戦って勝てるとは思わないほうがいい
それはAIのチェスアルゴリズムに気をつけて戦ったところで勝てないのと同じ
3DグラフィックソフトのBlenderの例
レンダリングの概念は、知っている人と知らない人との間でイメージが異なる
そもそも知らない人は、Blendar 上での見え方が全てであり、ライトやカメラ、影などレンダリング工程にならないと表示されないものは見えない
熟達者ほど、レンダリング結果を考慮できる
書籍:「無理」の構造 ―この世の理不尽さを可視化する においても、一度見えてしまった人とまだ見えてない人との非対称性が描かれている


> 第五章 ストレンジャーの生態学
エコーチェンバー現象は均質な世界への道
p237
>さまざまな人が混ざり合っている地域では、多数の視点が同じ時代の同じ瞬間に、たがいの前に集結する、公的な同時思考の状態をつくりだす。さまざまな言語、文化、人種や階級に応じた経験が同じ区画内の同じ建物内部で展開する。いっぽう、均質的な地域ではこのようなダイナミズムは消えてしまい、何かに合わせるよう強制されると屈してしまいやすい。
人類の家畜化が進んでいるように見える

> 第六章 思考の基盤を修復する
p239
>まず、私たちは分離した存在で、単純な起源の物語や、わかりやすい因果関係が存在するという考え方を手放さければならない。さらに、コンテキストを求める時点で物語全体を把握していないと認めることになるため、謙虚さとオープンさも必須だ。そして、おそらくいちばん大切な点が、生態学的な理解には時間がかかるということ。注意を充分に長く維持できてはじめてコンテキストは姿を現す。注意の持続時間が長引けば、それだけ多くのコンテキストが現れるのだ。
注意散漫になるのに抗って、じっくりコンテキストを得ることを提案している
コンテキストの理解には、空間と時間との接続が必要となる
ソーシャルメディアやインターネットの体験には、特に空間要素が不足している
短いTwitterのつぶやきや、ニュースの見出しだけでは、コンテキストが不足している
そんな、コンテキストが不足しているソーシャルメディア上で、発言をしたり・確認したりするのは時間の浪費ではないか?という指摘
p251
>まず、即時的なコミュニケーションは、ペースが速すぎてついていけない情報過多を引き起こし、そのために可視性と理解が脅かされる。バラッシによれば、アクティビストは「情報のスピードに遅れまいとついていき、つねにコンテンツを生み出し続けなければならない」。そのいっぽうで、情報過多のせいで、発言を聞いてもらえるなくなる状況がもたらされるおそれもあるという。
情報はものすごいスピードで増えているが、世界の大多数のものは自分にとってノイズ
人々のノイズ摂取割合が増えてしまっているのが問題になってきている?
ノイズというか、偽知識・陰謀論・扇動・事件やスキャンダルなど負の情報の摂取が増えている感覚
場所の感覚を大事にする、取り戻す

> おわりに──マニフェスト・ディスマントリング:明白な解体
明白な解体
未開拓の土地の開拓や「建設」は、じつは「破壊」だったのではないか
進歩とは、何かを作ったり生み出したりすることだけではない
解体してもとに戻すことも進歩とみなせるのではないか?
カルフォルニアのダム撤去のエピソード
日本人福岡の自然農法
今の科学農法は思いっきり逆方向に走ってるのではないか?
自然のやり方に留めておくことで、最前線のやり方となっている
アテンション・エコノミーを解体する方法はあるか?
生産性を重要視することを解体できるか?