Derrida
概念の脱構築
原典/良い解説書の紹介が書いてある
二項対立の一方を善とすることを疑う
あと、そもそも二項対立のどっちに振られるか分からない物を考え出す
これを
パルマコン(薬と毒のどっちでもある物)というモチーフで表現する
よく分からないのは、「二項対立の一方を善としている事を疑うこと」と「二項対立の分け方自体を疑うこと」がごっちゃになっている点
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二つは別のレイヤーの話だと思う
脱構築って結局どっちの話?
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あくまでも目的は前者だけど、後者が出来れば自動的に前者も達成されるから後者もやる、みたいな感じ?
自分は後者の方がおもろいなと思う
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ただの同じ枠組みの倫理の議論から抜け出て、新しいものが生まれる感じがあるので
パロール vs エクリチュール
本来, 本物, 本質っぽいもの
ええ、めっちゃ大きいこと言うなw
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パロール vs エクリチュールの例
音声 vs 文字
文字は誤読されるけど音声はされにくいので、音声に「真理性」があるみたいな考え方
???
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いやされるだろ、何も理解できん
解釈の一致みたいな所でいうなら音声も文字も変わりなくて、メディアというよりはinteractivenessが論点な気がする
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多分文字チャットがない時代に考えていたから音声に優越性を見出していた?
あ〜、というかこの考え方がまさに脱構築なのか
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自然 vs 人工
これもよう分からん
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とりあえずもっと定義をちゃんとクリアにしてから議論してくれ、という気持ち
うーん、どの二項対立も全然理解/納得できない
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というか納得しない事が脱構築かw
たけのこの里 vs きのこの山 を言い換えるのは流石に無理では
チョコレートへの直接性、みたいなことを言って無理矢理こじつけることは出来るだろうけど、そこまで解釈次第なのであればそもそもこのstatementに意味がない気がする
本質(パロール)v.非本質(エクリチュール)
本質の方が「良い」というのを疑う
これ似た様なことを以前書いた気がするけど見つからない
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まあこれはせやなって感じ
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脱構築を人生論に関連付ける話
この本、結構こういうところを大事にしている気がする
「デリダ的な生き方」を解釈してまとめると、
パルマコンとなる様な他者性を排除して自分を安定/固定化させるより、それらの他者性を受け入れていこうというスタンスかな?
(これは
masayachibaの思想っぽいけど、)その上で「デリダ的な生き方」だけを追求するのも、決断を求められる事が多い現実社会では厳しい
ただ、決断時に
捨象している物がある事に自覚的でいるのが大事だよね、みたいなことを言っている
これを「未練」と表現している?
現実問題「脱構築を追求」し続けるのは不可能で、「物事を捨象して決断」のバランスをとるしかないよねというリアリスティックな話をしている
確かにそう
哲学の抽象的な話のみ触れているとこの点を忘れそう
他人の現実的状況を無視して脱構築の追求を進めれば良いわけではないという点、意識するべきだなと思った
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