マーク・フィッシャー『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』をきちんと読む
このページが、読書メモにするか、まとめになるかはよくわからない。
とりあえず、54ページまでメモしてみることにした。
理由は、54ページまでがフィッシャーの論を考えるのに重要だと僕が判断したからである。
まず、フィッシャーは
という非常にネガティブなタイトルを打ちだす。
ちなみにこの本は音楽文化についての本でもある
フィッシャーはあらゆる概念を、
クロスオーヴァーにつなげていくので、そこが魅力である
なんだ、未来とか時間が存在しないとか、
時間にまつわる論考なのかという感じだが、フィッシャーは別に物理学者ではない。
「ここには時間がない、もう存在しない」というのは、イギリスで1982年に放映されていたテレビシリーズの『
サファイア・アンド・スティール』に登場するセリフのことである。
『サファイア・アンド・スティール』はSFドラマであり、サファイアとスティールという二人のエージェントが時間のなかの割れ目を修復するために活躍?するテレビシリーズらしい。ドラえもんに出てくるタイムパトロールみたいなやつかな。このドラマはどうも奇妙な雰囲気に包まれているらしく、敵も宇宙船も光線銃もない、未解明な構造をただ知っていくような内容らしい。制作者は、
時間が侵入してくる構造を考えついたとのこと。
フィッシャーはしばらくこのドラマシリーズについての記述を重ねる。ガキの頃に見てたのか、よっぽど好きだったんだと思われる。
サファイアとスティールは最後の任務で、小さなガソリンスタンドに辿り着く。
ここで本書の中で
マルクス・オジェの「
非‐場所」の概念を引用した解説が入る。後期資本主義び空間を支配していく、運送に関わる総称的な地帯(ガソリンスタンドやモールや空港など無個性な、クローン的な場所)のことである。
このガソリンスタンドは、時間が過去の時代から滲みだしており、1925年から1948年の間にあった様々なイメージが現れ続ける。結果として、あらゆる時間が混ざりあい、ごちゃごちゃなままひとつになって、均衡へと至る。
この状態を見た登場人物は、
「ここには時間がない、もう存在しない」と言う。ここでサファイアとスティールを
苦しめたのは、アナクロニズムと無力感である。
ここまで導入で、ここで本書の主張
> 本書の主張は次のようなものだ。すなわち、二一世紀の文化は、最後の冒険におけるサファイアとスティールを苦しめたのと同じアナクロニズムと無力によって特徴づけられる。だがそうした均衡状態は、「新しさ 」という永久運動のもつ表面的な熱狂の背後に隠され、葬りさられてきた。 あの「ごちゃごちゃになった時間」、過去の時代のモンタージュは、コメントするに価するようななにかではなくなってしまった。もはやそれに注意をむけさえしないことが、ごくあたりまえのこととなっているのである。
p24
未来というのは時間の方向性の話ではなく、近代という文化状況の中で出現した心理学的な知覚についてであり、近代文明の中で長い期間作り出され、WWIIの後にピークに達した文化的な期待のことである この期待は、
進歩という概念を共有しながら、様々な方法論をもたらした
共産主義という新しい全体性
ブルジョワ、民主主義
ここら辺は、言うたらこの時代に起こった
神話みたいなもんである
だけど、21世紀に入ってから
未来の衝撃が失われたんじゃないかとフィッシャーは言う
フィッシャーは音楽文化の話をする
この数年にリリースされた楽曲を1995年に送り込んでも、たいした
衝撃を与えられないだろう、と......
1993年の
ジャングル(90年代に起こった音楽ジャンル)のレコードは、1989年にとって衝撃であった
20世紀に実験的な文化は、新しさなど無限に可能であるような遺伝子組み換え的な熱狂にとらわれていた一方で、
21世紀は、
有限性や
枯渇という屈辱的な感覚に襲われている
21世紀が始まったという気がしない。20世紀にとらわれている
ここまで読んで、いや、フィッシャーお前はおっさん特有の「
昔は良かった」的なノスタルジーにとらわれてるだけやろというツッコミが入るだろう
1980年〜2010年という変化の時代
インターネット、モバイル・テレコミュニケーション・
テクノロジーこれらの変化が、文化が現在を把握し、それを分節化する力を失ってしまった
「フューチャリスティック」なもの、「フューチャリスティック」な音楽は、本来未来的な何かを期待させる意味で使われていた。現在は、単なる特定の書体のフォントのような確立されたスタイルになっている クラフトワークの音楽は既存の音楽への
不寛容さから生まれた
しかし、現在の音楽は、過去に対する異常なまでの順応さがある
このミュージック・ビデオは1980年代のロックショーを彷彿とさせる。まるでポスト・パンク期のバンドのようだ
もちろん彼らは意図してそれをやっているのだが、そこにはその時代への
リスペクトや、
寛容さがある
もし、1980年に1955年のやり方も模したレコードを作ったとしても、それは単なるレトロとして扱われていただろう
しかし、アクモンのこのレコードは、高評価をもって迎えられた
彼らの回顧的なあり方と対照をなす「いま」が存在していないからこうなる
これらはそれらが模倣している時代に属するレベルとして聞こえるが、どこか落ち着かない部分がある
つまりこれらは、現代にも過去にも属していない「
時間を超越した」時代にある音楽である
これは、心理的なノスタルジーの問題ではない
ノスタルジー・モードは過去の
技法や
定石にたいする
形式的な傾倒もしくは文化的な形式を同時代的な経験に適応するものへと刷新しようとするモダニズムの挑戦からの退却などから理解される
ここら辺の心理的ノスタルジーとノスタルジーモードの違いは、微妙にわからん。ジェイムソン読んでないし
この映画は1980年代を舞台にしてるにもかかわらず、30年代に属しているかのようである
技術的には拗ねて80年代の製品なのだが、それらが30年代的な、ノスタルジックなものと受け取られるように配されている
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この様式は現代の映画でもちょいちょい見られる手法である。80年代を描いた映画というより、80年代風に見せた現代劇であったり。具体的に思いついたら書こう
また、直接的に現代を指示するものもぼやかしている
1930年代から50年代にかけて育った世代の文化的経験として、
バック・ロジャーズのような
SFのシリーズ番組がある
こういうやつね
これはパロディーとは違う
同じ経験を味わいたいという深層の欲望を満たしている
時代遅れの冒険シリーズという形式のなかでその起源を隠しつつ、最新のテクノロジーに頼った前例のない特殊効果によって、『スター・ウォーズ』は新しいものとしてあらわせおおせている
未来の不在は突然始まったわけではない
しかし、現代その不気味な負荷は失われており、アナクロニズムは当然のものとなっている
アデルのレコードに、21世紀を印づけるようなものは、どこにもない
フィッシャーの暫定的な推測
時間がないので、すでに慣れ親しんだ満足感を最小限の変化の中で得ようとする
UKでは、戦後の福祉国家と高等教育のための
助成金が、1960年代から80年代にかけてのポピュラー・カルチャーにおける多くの実験にとっての資金の、間接的な
リソースになっていた
要は
文化的な実験に没頭する時間はなく、働かないと(音楽家なら売れるようなものを作らないといけないので、過去を模倣する方向性にいくしかない)食えないみたいな話
そういえばUKではコロナ渦で大量の音楽家が廃業したというニュースがあった
前述した人間の注意力に対する包囲は、消費者だけでなく生産者にも当てはまる
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ここでフィッシャーが何が言いたいかわからないかもしれないから補足。現代社会、一般的にSNS文化は今のアーティストの活動には必須であると考えられている。しかし、実際はこのSNSという当たり前化した文化の形式から撤退(
逸脱)する人間によってこそ、新しいものが生みだされるはずである。古い文化の撤退から常に新しい文化が生まれてきた。しかし、
我々は何の活動をするにもネットによる無制限なコミュニケーションを余儀なくされているため、その撤退ができなくなっているということだろう。
フィッシャーは、ここで
憑在論 という概念の話を始める
彼はここまでの事柄と、憑在論が関係があると考えている
>「〈憑在する〉は〈現前する〉 を意味するのではなく、一概念の構築のなかにさえ憑在を導入しなければならない」
存在論をオントロジーと言うが、憑在論は
ホーントロジーという。語呂合わせな概念である。
憑在論はデリダの考えた
痕跡や
差延の後継としてとらえられる
先に痕跡や差延の考え方をざっくり説明する
例:ある特定の言語は、それ自身の実定的な質からではなく、他の語との差異からその意味を確定している
しかし憑在論は、これら痕跡や差延の場合には必ずしも当てはまらないやり方で、時間の問いを展開させるのである それはそれ自体において存在しないが、しかしもはやないもの、ないしいまだないものの関係をしるしづける
※ちなみに、憑在論は超自然的な現象の話をしているわけではない
憑在論は、潜勢的なものの働きのことだと考えてみるといい
潜勢的とは、内にあって外にあらわれない勢力のことである
実在しないままに作用する何かであると考えるとよい
例:金融(金融という実体のないものが、潜勢的に後期資本主義において実行力を発揮している)
精神分析も、実体のない、亡霊的なものを科学する研究分野である
「もはやないもの」、ないし「いまだないもの」
これは、憑在論の中にあるふたつの方向性である
もはやないものは、今はもうないが、潜勢的な効果をもったままにとどまっているものである
いまだないもの(いまだ起こってないもの)まだ起こっていないが、潜勢的なもののなかですでに効果をもっているものである
例:共産主義など
遠隔-テクノロジーによって、出来事は簡単に観衆へ届くものとなる
ここでフィッシャーは、憑在論は21世紀の最初の10年間におけるポップ・カルチャー、音楽文化に適応されるべきと考える
ここで音楽の話になる
彼らは、記憶を物質化するテクノロジーに魅了されている
それらは、TV、LPレコード、カセットテープなどの破綻したテクノロジーである
物質化された記憶に対する強迫観念は、LPレコードなどの表面から生まれるノイズ、
クラックル・ノイズから呼び起こさせる
クラックル・ノイズは今のデジタル時代には、まさに「蝶番の外れた時間」を意識させる
普段我々は、インターネットなどで録音された音楽を聴くときに、それが録音されたものだと意識しない
レコードやカセットテープには物質性があり、これはアナログとデジタルの差異となっている。
憑在論的なアーティスト達は、このアナログメディアの身体的な特徴を取り上げている憑在論的な音楽には、戦後の電子音楽や、90年代のダンス・ミュージックシーンが生み出した希望が失くなったという、またそのあとに到来するはずだった未来(
いまだ起こってないもの)が消失したという認識が共有されている
しかし同時に、未来に対する欲望を手放してしまうことに対する拒絶も生ぜしめてもいる
この拒絶は、彼らがいまだにその亡霊を手放していないことを意味する
「もはやないもの」、ないし「いまだないもの」なのである
一方メランコリーはリビドーは消滅したものに対して結びついたままとどまる
過剰に殺すこと
資本主義における共産主義がそれである(共産主義を徹底的に殺す)
取り憑くこととは、失敗した喪なのだと考えることができる
モダニズムにおける先鋭的なプロジェクトがポピュラー・カルチャーの中で実践されたケース
音楽誌や公共事業放送の挑戦的な部分(先述した『サファイア・アンド・スティール』もその一部にあたる)
集団的に再形成され、拡張されていく
フィッシャーが若い頃の
期待の多くの部分を形作っていたのが、このポピュラー・モダニズム的なものだったらしい
ポピュラー・モダニズムは決して完結したプロジェクトではなく、発展性、未来があった
社会民主主義は、かたちの変えたひとつの全体性にしかならなかった
だが、それは多元的になるためのひとつの足場と考えるべき
>われわれがみずからに取り憑かせるべきものは、現実に実在していた社会民主主義というもはやないものなどではなく、ポピュラー・モダニズムが期待させつつ、しかしいまだに実現されてはいない未来のなかにある、いまだないものである。こうした亡霊たち、失われた未来の亡霊たちは、資本主義リアリズム的な世界が生み出す形式的なノスタルジーをたえず避難する
P51より
この『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』という本は、彼の人生において彼が期待したポピュラー・モダニズム的な「わが人生の幽霊たち」について語ったものである