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ヘーゲル


>ドイツの大哲学者。新プラトン派の哲学、ルネサンス以来の近代思想を独自の観点から、論理学自然哲学精神哲学からなる三部構成の体系にまとめ上げた。

>ドイツ南部のシュトゥットガルトの中級官吏の家に生まれた。幼いときからラテン語を学び、優れた読書家であった。18歳でチュービンゲン神学校に入学(1788)、最初牧師となることを志したが、のどの障害で発音が悪く、神学校の方針と対立したこともあって牧師となることを断念する。親友ヘルダーリンとともにフランス革命に共感。卒業後スイス家庭教師となり、独自の生の哲学に基づくキリスト教批判のノートを書く。
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> 1799年、父の遺産を得て経済的に自立し、友人シェリングを頼って、イエナ大学の私講師となる。1806年ナポレオン軍の侵入下に最初の主著『精神現象学』を完成。その間、下宿の女主人がヘーゲルの子ルートウィヒGeorg Ludwig Friedrich Hegel(1807―1831)を産む。イエナを去ってバンベルク新聞編集者をしたのち、ニュルンベルクギムナジウム校長となる。1811年41歳で20歳のマリーMarie Helena Susanna von Tucher(1791―1855)と結婚、翌1812年第二の主著『論理学』を出版。
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> 1816年ハイデルベルク大学教授となって、本格的な学問的な生涯を始めたときすでに46歳であった。翌1817年第三の主著『哲学体系』エンチクロペディー)を公刊、その体系思想の概略を完成する。翌々1818年ベルリン大学に転じ学問と政治との軋轢(あつれき)に巻き込まれる。宮廷には保守派が構え、ヘーゲルの支持する改革派と対立していた。他方、過激なナショナリズムの立場をとる学生運動があり、その熱気のなかで1821年第四の主著『法哲学』を出す。
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> ヘーゲルの著作としてもっともよく読まれる『歴史哲学』『宗教哲学』『美学』はいずれも、ヘーゲルが1831年コレラで死んで以後、弟子たちが編纂(へんさん)した講義録である。

テュービンゲン神学校ではシェリングとも友達だった。