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ニーチェをしろう

ニーチェについて気になることとか書いていきましょう。このページは汚く(乱雑に)つかっていい

目次
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Q1. ニヒリズムが気になる。
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Q2. なぜキリスト教がダメなのか?
(A1)
1. キリスト教的世界観や神が「捏造」されたものであるから
2. キリスト教的な「彼岸」・「真の世界」といった考え方が、この生・世界自体の価値を否定するから
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Q3. 「超人」とは何か?
(A1)
超人(≒ 強者)
自己のうちに価値の基準を確立しているひと
意味のない「永遠回帰」の世界で生きるだけの自己ルールと確信を得たひと

↔ 弱者(≒ 畜群)
「みんながそう言うから」と自分で良し悪しを決められない人
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Q4. どうすれば生をよく肯定できるか?
(A1)
ニーチェによれば、世界とは「(権)力への意志」が価値として解釈する現象である。つまり、世界は、私たち個人の解釈(特にここでは「倫理的」価値に基づく解釈)を離れてそれ自体として存在するものではない。また、倫理的な価値基準は私たち一人一人が創造することができる。したがって、新たな倫理的価値基準を私たち一人一人が作り、それを確信することができれば、それに応じて現象する世界が変容し、世界(生)を肯定することが可能になる。(cf. ニーチェ・哲学早わかり )

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(A2)
> 第一の意味のニヒリズムにおいて、たしかに生・世界の価値は否定されるわけであるが、しかしここで否定されるのは、神などによって権威づけられた虚偽の価値にすぎない。これらの旧来の価値以外に価値はありえないと考えるかぎり、ニヒリズムは生・世界についての無価値・徒労・感傷にとどまるほかないわけであるが、神などによって権威づけられた旧来の価値は虚偽であり、価値は本来、生に基づくものであるという認識をもつにいたれば、本来の自然的価値が、旧来の価値に対しては新しい価値としてあらわれることになり、第一の意味のニヒリズムも、おのずから克服されることになる。これがニヒリズムの自己克服の意味なのである。(『ニーチェを知る事典』p. 353)
「第一の意味のニヒリズム」については → ニヒリズム(ニーチェ)

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(A3)
> ──ニヒリズムを人間的意志によって「超克」することはできない。そういった主体による絶対的意味づけや価値づけといった姿勢がすでにニヒリズム的だからだ。そうではなく、そういった意志の形而上学の枠組みの〈外〉へ身を開くこと。無根拠・偶然・空・無常なる事実性を徹底的に深化すること。そのとき、「なぜ (warum) 在るのか?」という問いに「解答」が出されるのではなしに、もはやその問いそれ自体が消滅してしまうという仕方で、いわば〈解消〉されるような場に私たちは触れるのである。それは、「肯定する」という意志さえも不要の〈存在そのもの〉である。ニヒリズムは主体の意志によって「超克」されるのではなく、ただおのずから〈解消〉されるのである。(『存在肯定の倫理I ニヒリズムからの問い』 p. 155)

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Q5. 「永遠回帰」とは何か?

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Q6. なぜキリスト教的道徳が必然的にニヒリズムに行き着くのか?
(A1)
> ニーチェは、キリスト教道徳の育成した、真実を尊ぶ誠実心が、キリスト教の神やキリスト教的道徳的な世界および歴史の解釈自身に向けられることになり、キリスト教の神や道徳の虚偽性・欺瞞性を暴露して、その神や道徳的価値に対する不信を生じさせ、いっさいは虚偽である、いっさいは無価値・無意味であると感じさせることになったからであると考える。
(cf. 『ニーチェを知る事典』 読書会中のログ)
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読書会のログ関連
第一回ゆっくり読書会での最初の疑問点
> その反キリスト教的・反道徳的態度は、哲学者としては“異端”としか言いようがありません。
どうして異端とみなされるのか? 「反哲学」ではないのか?
・なぜキリスト教的道徳が必然的にニヒリズムに行き着くのか?
ルサンチマンは「ちぇっ」だけではなく価値転倒まで含む用語のような(個人的)イメージがあった
・利他主義がなぜ"強者”を引き摺り下ろすために使えるのか?
・なぜニヒリズムがダメなのか?
・哲学者としては異端というけど、じゃあ他の哲学者は品性方向なのかね?
神は死んだ。よく分からない
・超人。よく分からない
・ニーチェの思想は、やけにならずに、生を肯定する思想
・キリスト教のいったいなにが悪かったの?
・どういう倫理を疑った?どういう風に?
・新しい倫理ってどういうものだろう?
自分は、自分の生と世界そのものが苦悩に満ちていたとしても、どうすればそれらを「よく」肯定することができるか
がキリスト教か道徳かを批判する事にどうつながるのかが疑問ですけど、この先に出てくるのかな、とおもいました🐤
反だとキリスト教に縛られてる気がするのですよね。
反はいらないのでは?
カントの影響が大きくてカントが道徳的なので、哲学者は道徳的だというイメージなのかな
ルサンチマンも一つの世界解釈としては認めているんですね。ただ「真の世界(天国?)」は幻想であると。こう見ると科学っぽいところもある
ニーチェ自身が人を救おうとしているのか、真相と思っていることを正直に言いたいだけなのか難しいな
ニヒリズムにも肯定的ニヒリズムとか否定的ニヒリズムみたいな分類があったような気がするのですが、ここの記事では言及されないのかな?
ルサンチマンからニヒリズムへの過程(関係)も気になります
それまで人びとが疑いもしなかった至高の価値(つまりキリスト教的道徳)が意味を喪失してしまうこと、これがニーチェのいうニヒリズムだ。https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-nietzsche-wille-zur-macht-1/ ニヒリズムはこっちの記事ですかね
気づいた人々たちは否定的ニヒリズムになってしまうのに待ったをかけたのがニーチェかな
この記事について気になるところなんですが、ここだと「ニーチェの目的は、生きる意味を肯定できるような価値解釈のあり方を作り出すこと」となっているのですが、自分のイメージだと新たな価値解釈を作り出すのではなく、本当は一切が無価値なこの世を(それでも)肯定して生きよという感じなんですがどうでしょう?
運命愛、ですかね
俺のイメージでは、ニーチェは価値転換のイメージで、生の目的を持て!みたいなイメージ。価値を創ろう!というイメージ。
02:53 例えばこれは永井均の『これがニーチェだ』です、これだと「意味のなさこそが我々の喜びの根源」とされてますね。自分も所詮解説書知識なので、あんまり(どちらが正しいかみたいな意味では?)信用しないでください(笑)いろいろな解釈があるんだと思います
ないから作れるのかな
価値を創ろう(本当は無価値だけどね)!オア 一切は無価値だ(から価値を創ろう)!どうなんだろう
だから芸術的にも見えるのかな
なんとなく分かりそうだけど、なぜ無意味さが喜びになるのかの説明がこの箇所では見当たらず、どう解釈すればいいかなとなやみます。ひとつ可能性としては、意味なんて定まってたら喜びが減ってしまう。それはもったいない。意味がないから、喜びの可能性があるんだ……みたいな。(これでも意味不明瞭であるが) 
ツァラトゥストラで創造と遊びと喜びについて語っていた気がする………。
そもそもが無意味→でも意味ってものがあるようにみえる→その意味ってのは実は自分で作ったものなのだ→え、価値って作れるんだ→既存の価値に縛られないことができる→既存の価値では「ありえない」ことが「あり!」に転じうる→ありえないということに苦しんでいたが、あり!に転じうるので嬉しい→嬉しい😆これならわかる。


> ヨーロッパで最高の価値体系だったキリスト教
ギリシャ哲学はどこにいったのか?
・利他主義がなぜ"強者”を引き摺り下ろすために使えるのか?
これの意味も気になる(ゆるゆる)
・キリスト教がニヒリズムになる。なぜ?
・そもそもニヒリズムとは?
・キリスト教は生を否定すると確信。なんで確信した?
・ちぇっ。もっと言語化するとどんなかんじだろう?
キリスト教もけっこう軍事とか政治に関わってるんだろうし
ニーチェはキリスト教のことを世俗化したプラトニズムといっていたらしいです
もしも、真の倫理・真の認識が元からあるならば、自己が変わったところで、状況は変わらない。けど、もしも自己の創造する倫理や世界観によって、状況が変わるのならば、まだ希望がありますよね
私たちがニーチェの怒りを理解しにくいのはもともと非キリスト教圏の人間だからというのもある気がします。私たちはもともと神が存在すると思っていないので、それがいないということを知っても「騙された!」という感覚がどうしても希薄になってしまうのではないでしょうか。

>力への意志
なんで権力?力でいいじゃないのかな?
力でいい気がしますね 能力とか
(権)力への意志は固定されたものでなく流動的なのかな
なんでニーチェはそれが生の本質!と言い切れるのか。それがニーチェにとっての倫理創造なんだろうか。(真の世界とか、真の倫理とかはないから、「本質」という言葉の意味も、ふつうとは異なってきそうである)


>パースペクティヴィズム→遠近法主義
>永劫回帰


>他の人と諸々
マルティン・ハイデガーの講義録
「物自体」「真の世界」を実はニーチェも想定はしてるのかもしれないけど、言葉で表す限界を感じてたのかな 言ってしまうとカオスのような。プラトンが激怒しそう
ニーチェはソクラテス(プラトン)をボロクソ言ってるらしいです、ソクラテスは殺されて当然だったみたいな記述があった気がします
似てるというか義道がニーチェリスペクトですね、考え方もかなり似てると思います、ニーチェにおける「畜群」が中島のいう「善人」に対応してると思います
ただ義道はニーチェは言行一致してない点でかっこ悪く、その点キルケゴールの方がかっこいいと言ってますねhttps://note.com/free_will/n/nf4c88419ff4e ニーチェは高い理想を掲げる割には自分で(その理想に沿うように)行動しない、キリスト教を批判するくせに当時の基督教会と対決しないけど、キルケゴールは戦った(そして風刺画も書かれて馬鹿にされる)
ニーチェは、キリスト教における来世とかプラトンにおけるイデア界みたいなものも、本当はないのにあるかのように思わせるごまかしだとして糾弾してるイメージがあります
ヘラクレイトスに「アイオーン(世界、永遠)はサイコロで遊ぶ子供である」というのがあって、ニーチェも遊びと創造を同一視しているのかな。でもその認識は文学的な気もする。
ニーチェは「神の死」を切実に受け止め、苦悩したという点では、ただ周囲に言われるがままにキリスト者になった人よりも、遥かにキリスト教的であるとハイデガーは言ってますね
ニーチェが松岡修造に思えてきた



ラインで貼られてたのどうなんだろ。。
hr
ニーチェのなにがしりたい?
なぜかれは反キリスト教なのかをしりたい
よく聞く「神は死んだ」の実態をしりたい
かれのひととなりをしりたい
ニーチェは正直じゃないのでは?!
「倫理(的価値?観?)」と「認識」(現象)の関係をもう少し
現代(日本)的ニヒリズムにおける「神」は何か?
追加希望
hr
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