ニーチェとクロソウスキー
あらゆる運動はその中でさまざまな力が相互に理解しあう一種の言語として考えたほうがイイ。錯誤は生命間、つまり有機的な世界にしかなくて、無機的な世界には誤解が生じない(強者と弱者の間に議論の余地がないということ)。
無機的なものが主流を占める宇宙にくらべて、有機的な生命は偶然のケース。つまり宇宙系の中の一つの「錯誤」といえるね。
ところで、解釈というのは錯誤することへの恐れにもとづいてる。でも解釈に錯誤の余地ができるのは有機的生命において!
有機的生命の始まりが単なる偶然だっても、生まれてしまったからには偶然のままに行動することはできん。生命にとって自分の必然性を信じることが必要。つまり生命は生きるために偶然を避け、錯誤を犯さないようにすることが必要。錯誤によって存在してるのに!
「必然性」ってどういうニュアンスだろうか
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強すぎる気がする。
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さすがするどいですね、上の文は舌足らずですが読み返してみたら「一つの幻想」としてのみずからの「必然性」というつかわれ方がしていまっす。「生存の必然性という幻想――同時にその幻想の必然性」‥‥‥これはニーチェの言葉というよりクロソウスキーの解釈🦆
『現代思想入門』p70で、人間は脳神経が過剰に発達したので、あえて自分に制限を加えないと何すればいいか分からなくなるという話があったが、それと関わりそう。
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ニーチェにおいて、物理学の量的な意味でのエネルギー、「
力への意志」は有機体における「衝動」と同一視されてる。
日常的記号(外部からの記号)によってわれわれは思考してる。日常的記号は運動を略号化したもの。
ここらへんなんとなくニーチェっぽくない気がするので、気になる
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ニーチェは思考や記号についてどういうこと書いてたかなと気になる
日常的記号の組合わせに基づいた知識、文化、道徳……などの被いの下には無が、基底が、カオスが、他の名づけえぬものがある。それはとらえようがなく、仮にとらえたところでそれはそれではない。それは何も意味しないから、交換不可能なんよ。交換不可能だから、その上にいろんな知識を被うんよ。
頭脳器官は衝動にとって大きな障害で、衝動はその手前で相互に手を結んだり、相互に対立したりながらたえず闘っとる。その闘いはある固有の「
コード」を前提とするような解釈にしたがって行われとる。衝動は刺激に反応し、その刺激の中の化学的要因も相互に対して反応しあっとる。衝動や反発などがすでに解釈的なもの。
思考は日常的記号で衝動の力関係の状況の変化を解釈することから生まれるんよ。
読むほど混乱してきた
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2023/06/27~
再読する。
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きっかけ……『ツァラトゥストラ』を読み返した