キリスト教
イエスを開祖とし、また
神と事実上同一視して信仰する一神教の宗教。神は主と称される。
イエスを救世主(
キリスト)と仰ぐ形で、ひとかたまりの宗教として成立している。
イエスが人間なのか、神なのかは初期のキリスト教の頃から議論があった。日本では古くは耶蘇(ヤソ)とも呼ばれた
この部分を論理的に説明したのがいわゆる「
三位一体説」。ただし、この部分は古代キリスト教の布教の障害になるぐらいには難しい考え方ではあった
最終的にアタナシウス派が政争に勝利し、他宗派を
異端とすることで現在のキリスト教は成立した。
アタナシウス派は現代において
カトリックと呼ばれている。
「
西暦」の起源がイエスの生年(Anno Domini「神の年」)によるものとされたり、歴史的影響力は大きい。
それぞれの意味は、旧約は文字通り神と人とがかわした「古い約束」。
これに対してイエスがもたらした
福音(良い知らせ)が「新しい約束」であり、
この両者がなければキリスト教は成り立たないとされている。
このことから新約のイエスの伝記部分を「
福音書」と呼ぶ。聖書に始めて触れる人はこの辺がとっつきやすいかもしれない。福音書はそれぞれ、正典としてマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネが存在する。
宗教上の母体としては
ユダヤ教が存在するが、これから分離独立した形になる。
両者の違いは聖典の扱いにも現れている。
簡単に説明すればユダヤ教はイエスを
預言者(神の言葉の代理人)とも神(あるいはその子)とも認めていない。
また、ユダヤ教は独自の聖典を持っている(
タナハ)。
世間的には「ユダヤ教の聖典は旧約聖書」とされているが、この点から色々分かれているので注意。
なお、より後発の
イスラーム教はイエスを
預言者(神の言葉を伝える人)とは認めつつも、神、ないし神の子という立場は認めていない。
この関係で
クリスマスには注意が必要である。クリスマスはイエスの生誕を記念する祝日である。他の宗教者からすれば別にめでたい日ではない。
そのため、合衆国ではクリスマスを「Happy Holiday」と表現し「ただの休日(連休)」と扱う動きもある。
クリスチャンは教会に行ったりしつつ他宗教(あるいは
無神論)の人は適当に休日として満喫すべし、という訳である。
そしてキリスト教とユダヤ教はイスラーム教の開祖
ムハンマドを預言者としてさえ認めていない。
この3つの宗教は「同じ神」を信じながら組織・派閥としてはわりと明確に割れている。
ただしこの3つの宗教でも妥協できる部分はある。旧約聖書の特に古い部分、
モーセ五書に現れる
アブラハムはこの3つのどの宗教でも敬意を払われている。
(なんで「モーセの宗教」じゃないのかって? 私にもわからん)
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イスラム教徒にとってモーセは何人もいる預言者の中の古い一人に過ぎないからじゃない?
「最後の預言者ムハンマド」が最も優れていて、彼の伝えた言葉を信仰しよう、という宗教が「モーセの宗教」と言われて受け入れるはずがない
カトリックの区別は明解で、ローマ・カトリック教会に準ずる宗派である。
ヴァチカンの
教皇をイエスの使徒ペトロの後継者と仰ぎ、比較的保守的な姿勢を維持している。
プロテスタントは「プロテスタント諸派」と言われる程度に多様である。
理由は単純でプロテスタントの定義が「カトリック以外」ぐらい広いからである。
英語の「抗議(Protest)」に由来する通り、カトリックに抗議、
すなわち異議を持つ派閥はすべて「プロテスタント」である。
有名所は
など。
両者の区別もあいまいではある。
日本語ではカトリックの教会代表を
神父、プロテスタントを
牧師と分けることが多いが、
この区別には異論もある。
ただし、カトリックの人間が神の力(
聖霊)を受け継いでいると主張するのに対して、
必ずしもその考えを取らないプロテスタントは「牧師(羊飼い)」を名乗りたがる。
日本においてはプロテスタントの力が強い。大前提として、
キリスト教を広める
宣教師がプロテスタントであるのには注意が必要である。
というのも、カトリックはヨーロッパにすでに大きな支持基盤を持っているのであるが、
プロテスタントはそれを一から作らなければならなかったからである。
ただややこしいことに戦国時代ぐらいに日本に来た宣教師はカトリック(
イエズス会)の人もいる。
とはいえ戦国-江戸時代は特に日本のキリスト教の迫害の強かった時期で、
カトリックは日本に地盤を作れなかったようである。
とはいえ、概して日本の為政者はキリスト教を警戒し、
踏み絵などでキリスト教徒を排除し、
また
檀家制度を導入して寺によって家々の宗教心(キリスト教徒でないか)を管理するようになった。
またしても辺境に追いやられる。
国家神道による弾圧という形でキリスト教はまたしても日本で根付く機会を失った。
戦後もまた「宗教」のレッテルを貼られ少数者にとどまっている。
人々は国家神道のおかげで宗教そのものへの不信感があり、
それゆえ「どの宗教にも属さない」という意味の
無宗教を標榜する人が多い。
「墓は寺にあるから仏教」のようなあいまいな宗教意識の人も多い。
ともかく、日本で力を持ったキリスト教の派閥はプロテスタント諸派であった。
国内の布教活動を牽引した
聖書教会もプロテスタント諸派によって構成されていた。
最近の日本のキリスト教動向としては、プロテスタントとカトリックの和解である。
国内の有名な聖書の和訳は「
口語訳聖書」が主流であったが、これはカトリックの教理からすれば受け入れがたいものだった。
そのためプロテスタント諸派とカトリックの協議の元、まず共同訳聖書が作られた。
しかしこの翻訳はすべて原語の発音に忠実に訳したため読みにくかった(イエスをイエズスと呼んだり)。
そのためこれを改めた「
新共同訳聖書」が新たに作られ、これか口語訳が主流となっている。
他新改訳聖書、も存在するが編者は詳しくない。おそらくプロテスタント系の聖書。
それ以外に、カトリックでは文語調のラゲ訳、バルバロ訳、フランシスコ会訳などが存在する。
2018年現在では聖書教会共同訳という新訳も登場した。
とはいえ、キリスト教徒は日本人口のわずかに1%を占めるに過ぎない。
他方で「働かざる者食うべからず」「産めよ増やせよ(地に満ちよ)」「目からうろこが落ちる」「豚に真珠」のような、
聖書由来の表現は日本に多く根付いている。
日本に与えた影響を計るのは難しい。恐らく強いと書けばそれは大きく書きすぎで、
弱いと書けばそれは小さく見積もり過ぎているだろう。
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