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ターンを重ねて理解していく、というアプローチ

序論
タイトルの由来となったもの
1ターンの理解と複数ターンによる理解という論点
そのページでは、1ターンで相手の考えを見抜く、あるいは、相手によって自分の思いを見抜かれる……という理解の仕方・理解のされ方が、典型として想定されていると思った久住哲
だが、実際の会話の場面では、1発で相手の心を読むなんて無理筋じゃないだろうか。
実際の会話の場面では、私たちはやり取りを通じて、複数のターンを通じて、徐々に相手の言っていること・言いたいことを理解していく。
やり取りが一方的なものであれば、相手の言っていることを理解することにもならないし、自分の言いたいことを相手に理解させることもできないだろうと思われる久住哲
一方的なやり取りには、能動的なものと受動的なものと、2つある(とりあえず2つ)
①一方的に話すこと、
②相手の言いなりになること

問題提起部分
訂正について
②をとりあげる。「自分が言いたいこと」を相手に伝えたい場合、相手が変なこと……自分が想定した文脈とずれること……を言ってきたら、「それはちがう」訂正しなければならないだろう。相手のペースに呑まれれば、相手に自分の言いたいことを伝えることができない。
ちゅういただし、話し相手が自分の話したいことに合わせてくれるとはかぎらない。その場合、「それはちがう」と言ったところで、話し相手からしたら知ったこっちゃないだろう。相手から言わせれば「君にも話したいことがあるのだろうけれど、僕にだって話したいことがある。どうして僕が君の話題に合わせなければならないんだ」
訂正が重要な理由。それは、相手が、私の言いたいことから離れていっており、相手の理解と私の理解とを一致させるためには私の近くにまで相手を連れ戻さなければならないから、ではない。そうではなく、訂正するという行為そのものに、訂正する人の考えが現れているからだ。すなわち、訂正は主張のおまけではない。訂正は非本質的なものではない。むしろ、訂正にこそその人の考えが表れる。

議論A
かりふぁさんのコメント
訂正と黙認/受容についてどれが聞き手の考えが表れているのかって優劣付け難い。かりふぁ
聞き手はその認知のおよぶ範囲で話し手の立場や期待や感情を類推できる。
久住哲「類推」という言葉がここで出てくる訳が二重の意味で分からない。
1. 訂正者が、勘違いしている相手に対して、「まあ、そういう立場にあるなら勘違いも仕方がないよな」「まあ、そういう期待を持っているなら勘違いも仕方がないよな」と思うことはありえる。しかし、そのようにして自分が理解されることを諦める態度は、もともとの話では想定されてすらいない。したがって、なぜそれをここに書いたのか、私には分からない。
2. 「類推」という言葉自体がここで出てくる意味が分からない。一応、間主観性の現象学では他者経験において「類推 Analogie」が働くといった言説がある、といううろ覚え知識はあるが、そのことだろうか。
類推の表現は聞き手(訂正者or受容者)の"認知のおよぶ範囲"での解釈という点を強調して表現した。かりふぁ 聞き手にとって不可解な話し手の解釈を媒介する見知らぬ要素Xの存在可能性を含意している。
このコメントに反応する前に論じておかなければならない論点がいくつかある:
1. 「類推」という言葉の意味
2. 訂正者がどのようなつもりで聞き手と話していると、想定しているか
久住哲が想定しているのは、相手に自分の考えを理解させるつもりでいる
かりふぁさんが想定しているのは?
3. 「聞き手にとって不可解な話し手の解釈を媒介する見知らぬ要素Xの存在可能性を含意している」という表現は難解であるので、確認したいのですが、これは「アブダクション」のことですか?
かりふぁおっけい
1. 類推 ここでは相手の実存を想起するので、相手の立場や生活感に根ざした会話の意図の推理をする。類比とも、
久住哲それは「類推 analogy」ではないと思うのだけど。どちらかといえば「想像」であったり、「配慮」ではないだろうか
2. 聞き手(訂正者or受容者)は話し手の考えを訂正したり受容したりするが、話し手は積極的に自分の考えを聞き手に理解させたりするわけではなく、対等な自己開示を想定している。
かりふぁさんと久住哲とで想定が異なる、ということになる久住哲
3. アブダクションではあるなぁ。聞き手にとって解釈違いを起こす話し手の言説の全体像を構築するという操作で、何を問いただすかを検討するかというところ。
久住哲そもそも、「聞き手」が相手の発言を訂正するからといって、「聞き手」が相手の発言を不可解だと思っていると推論するのは間違っている。なぜなら、「聞き手」は相手が自分の考えを誤解していると見なしているからこそ、訂正を敢えて行うのだから。もし相手の発言が不可解であると思ったならば、訂正すらできず、「どういうことですか?」と訊ね、まずその不可解さを解消しようとするだろう。
久住哲この文がここに書かれる意味が分からない。なぜなら、ここでの話題は「聞き手の考えが彼自身の訂正に表れるかどうか」であって、「聞き手が相手の見当違いなコメントに対して理解を示せるかどうか」ではないからだ。(この理解不能の表明は、「類推」についての1. の解釈を前提としている。)
久住哲この文が以下のことを言っているとしたら、この文がここに書かれる意味が分かる:「聞き手はその認知のおよぶ範囲で話し手の立場や期待や感情を類推できる」ので、彼の訂正にもそういった「類推」が反映される、ゆえにこの文は、訂正に表れる彼の考えの中身が記述されている、その中身とは、「相手の立場・期待・感情に対する類推」である、……と。 この場合、黙認/受容も同様であり、黙認/受容にもそういった類推が反映されうる。したがって、「優劣付け難い」ことになるのだ。 
聞き手はその共感能力においてその話し手と自己とを同一視して、話し手の態度を受容する。
聞き手はその話し手の態度、特に私の言いたいことをおざなりに了解するそぶりをしていたり、被害者認知ないし色眼鏡で事物を矮小化したりして話すその態度を訂正できる。
話し手が聞き手に訂正された時、聞き手の声を聞く態度であるか、あるいは話し手の認知で聞き手のその訂正の意図をその態度を適切に推し量れるか。
話し手の態度を共感能力を通じて受容する過程抜きに、話し手に聞き手の態度を受容させるような訂正は成立し難く思える。

議論B
訂正話のなかで起きた「話し手」と「聞き手」の指示対象に関する混乱
久住哲による注釈:久住哲かりふぁとの間で「話し手」「聞き手」の指示対象が逆転している
もとの文は、自分が話す側で、相手が聞く側。相手がズレたことを言ったときに、自分が訂正するという想定で書かれていた。話す人の視点から語られており、また、「聞き手」は自分によって訂正される側だった。このとき、この訂正において誰の考えが表れるかといえば、話す側の考えだ。(cf. ターンを重ねて理解していく、というアプローチ#63ff21d4cc1fc10000bd01b3
>「自分が言いたいこと」を相手に伝えたい場合、相手が変なこと……自分が想定した文脈とずれること……を言ってきたら、「それはちがう」訂正しなければならない
かりふぁさんの文は「聞き手の考えが表れている……」となっている。これは逆であるようにみえる。しかし、この「聞き手」は『訂正されるべき発言を聞く者=訂正者』を意味するだろう。すなわち、「話している私」を意味する。ここでの「聞き手」とは話し手のことである。というのも、ターンを重ねて理解していく、というアプローチ#63ff40cb191e440000dce572で「話し手が聞き手に訂正された時」と言われており、『聞き手=訂正する者』であるからだ。
うっかりふぁかりふぁ
あ、これ合ってます?久住哲
思い出した。一応聞き手=訂正する人で記述した記憶がある。
聞き手=訂正または受容/黙認するひとか。かりふぁ
久住哲ある人がAというコメントに対して「黙認/受容」するのを見ても、彼がAについて肯定しているのか否定しているのかは分からない。いっぽう、ある人がAというコメントに対して、それを訂正しようとしているのを見れば、その人がAについて否定しているのが分かる。したがって、「黙認/受容」よりも訂正の方からこそ相手の考えを読み取ることができる。なので、「優劣」は歴然としている。
話し手にとっては自らの態度を語りによって提示しており、ここで聞き手の言説を受け取る態度を直ちに用意するだろうか。聞き手が話す言説から聞き手の実存を想起することがある。あるいは聞き手の社会的地位によってそれを承認せざるを得ないかもしれない。むむむ。聞き手の受容が話し手の道徳的な態度を導くのかわからんくなってきた。かりふぁ
cman「話し手」「聞き手」あたりが混乱しているように思う。久住さんの文では一貫して「話す者が、相槌に対して、訂正を行う」というような形になってると思うが、ターンを重ねて理解していく、というアプローチ#63ff58b9191e440000dce576あたりから、かりふぁさんは最初「聞き手が訂正する」という形を想定しているように思う。久住さんの文脈に従うなら、この場合の「聞き手」とは「話し手が思う話題と違うことを言う人」。文章を引用するなら「話し手は、自分の言いたいことを言う」「聞き手は、話し手が想定した文脈とずれることを言う」「話し手は、それを訂正する」。
マジか。久住さんでは聞き手=訂正される人やったんか。
久住哲「マジか」と思われてもおかしくない
>「自分が言いたいこと」を相手に伝えたい場合、相手が変なこと……自分が想定した文脈とずれること……を言ってきたら、「それはちがう」と訂正しなければならないだろう。
この文は、主体が相手にものを伝えようとするところから始まっている。そして、その者に「訂正しなければならない」と述語づけられている。したがって、話し手=訂正者。
だが、ここでこの主体は、変なことを言われる立場にもある。そこで、この主体は聞き手でもある。したがって、聞き手=訂正者
この注釈における久住さんの、「かりふぁさんの文」を考察するパートにおいて、「かりふぁさんの言い方に合わせるなら、ここで指示されている『聞き手』とは、訂正する者なのだから、久住哲の文における『話している私』を意味しているだろう」となっている。
『話している私』は、「最初の話し手」だろう。その次に「聞き手」が話をして、その話をまた「話し手」が訂正する、という流れになるはずだ。
ターンを重ねて理解していく、というアプローチ#63ff62cbcc1fc10000557e8eではこれに従って、「主体であるところの『最初の話し手』は、自分が想定した文脈からずれたことを言う『聞き手』に対し、訂正を行う」ということと、「このとき、当初『聞き手』であったものは、“文脈からずれたことを言う”話し手として解釈が行なえ、当然主体であるところの『最初の話し手』も“ずれたことを言われる”聞き手として解せる」ということが話されている。
そして、「訂正者はどちらでもあるよね」という話になり、恐らくそれを前提として↑の方の議論は行われている。
かりふぁ氏は恐らく違う流れを想定している:「話し手」が話す。その主張に対し「聞き手」が“それってこういうことでは?”とか“なんかおかしくない?〇〇だと思う”と訂正する。
その「聞き手の訂正」に考えが現れている、と読んでいると思う。
cmanわかんないッス。(何故ならテキトウに読んだからだ)(しかし聞き手と話し手の指示対象逆転が起こる典型的な勘違いとしては、そういう形になるだろうと思った)
久住哲あ、そういうことなのか?だとしたらターンを重ねて理解していく、というアプローチ#63ff21d4cc1fc10000bd01b3を読み返せとかりふぁさんには言いたい笑
うっかりふぁかりふぁ
久住哲そうなのか?!笑(ちなみに、ぜんぜんそれでもいいです)2023/3/1
久住哲いやよくないかもな、と思う。一般論、それがどういう場合によくないかと言えば、腰を据えて話し合う場合に、だ。「別にいい」と思えるのは、ブレストの時。互いが独り言を言うような時。けど、このページでは、私は会話にコミットしている。なので、ぜんぜんいいというのは、弱腰な態度だ。たぶん、「読み返せ」と言っちゃったことにビビって、雰囲気を和らげようとしていた笑 2023/3/7
久住哲だとしたらターンを重ねて理解していく、というアプローチ#63ff57e2191e440000dce574の「うっかりふぁ」が両立不可能性含意ではないか、と思われてくるが、「うっかりふぁ」がなんらコミットメントの撤回を表すものではなくて、軽い感情表現であると解釈したならば、両立不可能性含意には当たらない
くぅ〜しまん先生の指摘通りですわかりふぁ
cman奇しくもこのやり取り自体が、「話し手久住哲が聞き手かりふぁのした想定した文脈とずれる話を訂正する」という構造になっていて、おもしろい。
面白がられちゃった🙄
自己言及会話会の企画者ですから🥴(笑)久住哲
いいね+1cman
経験値+1かりふぁ

派生A
訂正それ自体に注目する論点
cmanここから、新たな問……というか、派生したものが立てられそう。話し手聞き手という概念を排除した問い方。訂正するという行為は立場に関わらず訂正者の考えを表すか
眠気のまま書いたけどこれそのまま上の方で議論してるかもな
2023/3/7時点ではまだ議論されていない。関連しそうな箇所はターンを重ねて理解していく、というアプローチ#63ff21d4cc1fc10000bd01b5
久住哲おそらくそう言えるだろう。だが、まず先に片付けておくべきなのは、「行為が……考えを表す」という文の意味はどのようなものであるか、という論点。それについて考えたとき、そこで言われている「行為」が訂正行為であるという点が本質的なことであるということが明らかになるだろうと予想する。

派生B
かりふぁさんの考察
いいかい?ターンを重ねて理解していく、というアプローチ#63ff21d4cc1fc10000bd01b3 をガッツリ読んでもう一度受容のありかたをかんがえるのじゃぞかりふぁ
理解に関しての、訂正と黙認/受容の機能について
会話の再帰性に基づいて相互理解を徐々に深めるとき、Sは話したい情報Aをもつ。Lはそれを聞く。
tをターンとする。CstはSのtにおける認知、Clt+1はLのt+1における認知。XstはSのtにおける表現、Xlt+1はLのt+1における表現。Cst(A)=Clt+n(A)となれば理解の成立。
t=1
Xs1(Cs1(A))は提示される。
*Cs1(A)はSにとってLに理解して欲しい内容である。発話内容が表現される
t=2
Cl2(Xs1(Cs1(A)))は生成される。Cl2(Cs1)は生成される。
*会話を聞くないし非言語コミュニケーションを受けとる、会話内容を得る。
t=3
Cl2(Xs1(Cs1(A)))をCl2(Cs1)で補完したA'が生成される。Cl3(A')が生成される。Cl3(A')=Cs1(A)だと判断する。
*聞き手が分析してるターン。今回は聞き手は話し手の意図を理解したと誤解する。
t=4
Xl4(Cl3(A'))は提示される。
*LはSに理解を示し表現するが、独自の解釈が含まれる。
t=5
Cs5(Xl4(Cl3(A')))は生成される。Cs5(Cl2to4)は生成される
*会話を聞くないし非言語コミュニケーションを受けとる、会話内容を得る。
t=6
Cs5(Xl4(Cl3(A')))をCs5(Cl2to4)で補完しA''を得る。Cs6(A'')が生成される。Cs6(A'')とCs1(A)は異なる。
*話し手が誤解に気づくターン。以下で分岐する。
t=7 訂正
誤解Xs7(Cs6(A''))と正解Xs7(Cs1(A))を提示し、相違点Xs7(Cs6(A'')-Cs1(A))を提示する。
t=7 受容/黙認
誤解Xs7(Cs6(A''))を提示する。

編集ログ
切り出すとしたら議論Aと議論Bかな
議論Aは主に久住哲かりふぁさんの議論
議論Bは議論Aに対する考察
議論Bの冒頭に「承前: [議論Aのタイトル] 」を置く
元々は、2023/3/1時点での実はコミュニケーションは難しいに対する久住哲の感想を述べる、という形でこのページははじまった。
2023/3/9、書き込みが落ち着いたので、ページを整理しはじめる。
該当議論のインデントが深くなっていたので最初の文をインデントレベル1としました。cman
指示対象について混乱した議論のこと
これは長くなった後、落ち着いた時に切り出しやすいように。
助かる〜かりふぁ久住哲
編集用メモ
1️⃣訂正についての導入
2️⃣訂正と受容に関するかりふぁさんのコメント
そこから長い議論
インデントも深く文字量も多い→切り出し
訂正について話しながら訂正をする、という自己言及的な構造になっている
(ページの独立性を損なう要素)
類推についての話のうちに、《訂正についての導入》で想定された語り手と聞き手のケースが入り込んでしまっている
かりふぁさんの最初のコメント
かりふぁさんの話はおそらく、元の文脈から外れている。なので、それ全体を別ページにした方がいい。だが、くすみがそれに気づかず、無理やり元の文脈と接続させようとしている。これによりねじれが生じている。
3️⃣指示対象逆転へのメタ言及