なぜ政治の話はタブーになるのか
小さな争いの
火種になりがちだから?
日本人にとっては宗教みたいなものだから?
日本人は
無宗教だが、宗教レベルの依存対象が無いかというとそうではなく、そこに政治が来ている
大文字の宗教の信仰が弱いだけで、土着的というか風土的な信仰はそこかしこにある国ではある気がする
政治の側がそこに依拠しようと色々してる印象もある
神道っぽくないけど儀式的な言葉遣いや振る舞いをするとういうか
ルールのあるコミュニティだとたいてい禁止されている感
うろ覚えだが就業規則
規約レベルで会社でも禁止されてるイメージ
そうなのか
なんだかんだマジョリティが無神教チックな日本だからできることなのかな
米国だと禁止されることに対してキレる人がたくさんいそう
多国籍な企業だとイスラム教徒のために多目的室を用意しないのはおかしいってなりそう
宗教絡みは、殺人だとか拉致監禁とか洒落にならない事例があるからやらないほうがよい
議論ができない人が議論に混ざりがちだから?
キレる人が参戦してしまうから?
正義の話になるから?
最近日本人がケチな
国民性だからなんじゃないかと思った
政治の話をすると自分の資源とか利権みたいなものを減らすような意見にも出会うことになる
自分の資源・利権を減らすことに対して強く抵抗する(=ケチな)人が多いんじゃないかな
ココまで考えた後で、「自分の資源・利権を減らすことに対して強く抵抗するのはどこの国でもそうなんじゃないの?」とも思える
↑の自己批判に対する↓カウンターをしてみた後の決着の要約: サンプルが足りないので知らん(これ以上考えてもしょうがない)
「そんなことない」ではなく「どこの国でもそうなんじゃないの」と思った時点でケチな人物として以下の範囲が候補として考えられる(
過度な一般化からの逆算)
自分1人がケチ
自分の身の回りの人がケチ
日本人だけが(とりわけ)ケチ
全員ケチ
↑ 自分 & 自分の身の回りの人が普通に政治の話をする+ケチな感じはしないのでとりあえず候補が「日本人」と「全員」に絞れる
最初の日本人がケチな国民性だからなんじゃないかという仮説自体が自分の中のステレオタイプな(かつ悪い印象の)日本人像がケチなので最初から「日本人」か「全員」かのどっちだろうにはなるけど
そして、全員ケチなのか日本人だけがケチなのかは今まで自分が観測した人の多様性も人数も足らんので知らん
政治の話は色んな人の「直感的に当たり前だと思っていること」がぶつかり合うから揉めやすいんかね
車椅子オンリーと思っている人もいる
「政治」が少なくとも 2 種類あると思っている
人間関係の方の政治
統治方法の政治
野球と政治と宗教と言われて忌避される原因の 1 つにこの 2 つを混同しているという点を挙げたい
その上で人間関係の方の政治に公私混同ならぬ他私混同のような物も混ざってそう
NIMBYなだけなのに X はダメだ!と言ってみたり
X はダメだ!
まぁ実際に X (旧 Twitter) の名前は Not for me なんだけども
変数 X が登場するたびに旧 Twitter にメンションする天丼ネタ
iって名前のWebサービス作ったら変数iが登場するたびにメンションされていいかも
揉めやすさだけではなくて、
公職選挙法のややこしさが少しある気がする
良かれと思っても事故が起きやすい?
よくわからないから一律黙っておこう、みたいな
リスク回避をしてしまいがち
そのせいで興味までなくなってしまうの損失だと思う
薬物ダメ絶対と選挙の話をするなが同じ分類になってしまってる
みだりにすべきでない、と、常にすべきでない、の間
儀礼的に政治の話をたくさんする時間があってもいいと思う
議論に入るための前提がわからなすぎて入れない感じ
野球・宗教・政治って言われるぐらいだから揉め事忌避が大きいと思う
無いとまでは言い切れないけど、本質じゃない感
揉め事忌避が大きいと思います
の体感的には
平均を想像すると揉め事忌避が10あったら法律のややこしさは1くらい
個人的には10と6くらい
揉め事が起きない、起きても大丈夫と思える場があったとしても、やはり避けてしまう気がします
揉め事忌避、仕組みや前提のわかりにくさ、多分それだけじゃなくて他の障害が二重三重になっていそう
特殊な人間のためのもの、というイメージができてしまうのがなんとなく嫌な感じです
>そのせいで興味までなくなってしまうの損失だと思う
> 薬物ダメ絶対と選挙の話をするなが同じ分類になってしまってる
これが趣味の話なら好きな人だけやればいいのですが
生きるために多かれ少なかれ必要の意味
グルメである必要はないけど、もっと身近な領域もあるはず
>みだりにすべきでない、と、常にすべきでない、の間
野球が巻き添えにされとる!って思ったけど実際野球ももめ事おきがちな分野なのかな?
野球はむしろ楽しくケンカするためのトピックのイメージ
もっと古い時代は本当に喧嘩になることもしばしばだったんじゃないかな。熱狂の度合いが違うし。
みんなバックグラウンドが違いすぎて、そもそも意見や支持政党があわない
ただ、格差がより大きい海外(主語デカ)でも、政治の話が積極的にある感じなのでなんでだろうね
中流が多いからそれほど積極的に話すメリットがない?
むしろそういう議論を積極的に行うコミュニティもある
こことかもどちらかというとそっちよりに見える
忌避しようという性向も見えるが
そもそも議論を行う社交の場が形成されてこなかった、という歴史があるような気もしなくはない
今風のサロンではなく、
ハーバーマスが
公共圏の元ネタとして参照してたような「サロン」の文化って日本にあったっけ?みたいな。あったとしても輸入品だろうし。
とはいえサロンなんてエリートのたまり場みたいな感じだと思うし、日本でもエリートは日頃から政治の話してるだろうし、社交の場がないというより社交の場なんてそもそも一部の人にしか関係がない、という話かもしれない。
自分は金融業界にいるけど、金融業界は割と政治の話多い
が、芯食った話を丁寧に避けて話す、みたいなところはある
サロンは業界利益のための場ではないから(間接的にはそういう側面もあると思うが)、芯食った話しても別に構わない、みたいなところはあるのかも。
が、「お茶をしばきながら異業種のエリートと議論を交わす場=サロン」では、別にその人とビジネスするわけでもないからこの国、この経済の正しいあり方を議論する、みたいな方向に持っていけるのかもしれない。しかも「政治の話ができる人」を装うこともまたエリートの証として重要だったりはするので、最初から政治の話にダイレクトに入れる。
この視点は面白い
公共圏というワードをだしてみて思ったが、日本の公共圏のあり方の違いが忌避につながっているという側面もありそう
心的共振(要は全会一致でその意見サイコー!!!ってなってる状態、
アテネ民主政的な
直接民主主義の起源)してる小集団が衝突してこじれる、みたいな構図は日本でもよくみられれる(というか万国共通)
多分この心的共振してる小集団の規模感や、共振する政治的課題の区分の仕方が日本と海外で違うんだと思う
米国は共和党vs民主党だと仮定して、他方、日本は自民党vs野党(vs国民民主vs立憲民主vs共産党)という構図に見えているが、実は「自民党vs反共」なんじゃない?とか。でそれが議論の前提になってないから訳のわからないこじれ方をする、で忌避するようになる、とか。
あるいは別に日本も海外も国民はみな「政治の話をしている」が、人々が無意識的に「政治」として捉えているものが違う、という見方もありうる
そもそも本当に今の日本の政治が国民にとって関心のある分配の話をしているのなら、ここまで投票率は低くならない気もする。
ちなみに投票率が低下するのは先進国で共通して見られる事象なので日本が特別ってことはないはず。どこの国も政治は本当に分配するべきものを分配するための議論の場になっていない、という説の方が妥当だと思う。
国民が本当に重視している「分配されるべきもの」は他にある
そして国や自治体の政治に頼れないがために
社内政治が活発化する
米国の場合、
ジョブ型社会なので社内政治はそこまで重要じゃない?
社会階層によって違うと思うが。
組合が強いドイツとかだとどうなんだろう。
本来は外部から分配され得ぬ
自己肯定感を、なぜか分配されうるものだと取り違えて、誰も彼も社内で/インターネットで自己肯定感の分配を過激に求め続けてドツボにハマっているのが現代、というアイディア。
本当に分配されるべきものについての議論は、本当に加熱してしまうのでできる限り場を整えてやらなければならない?
腹を割って話せる相手にしか本当に分配されるべきものの話なんてできない、というほどに、分配されるべきものが「
個人化/
実存化」してしまっているのが現代とも考えられる。
むかしは個人よりも社会/集団の方が力の大きい世界だったので、腹を割って話さずとも、「自分の考え方は当然集団を代表している」という感覚が共有されている。集団として議論をすればよかった。
が、現代の分配されるべきものは実存に結びつきすぎているがために、何を話すにも自らのアイデンティティを暴露しなければならずしんどい。
し、そもそも自分が何を欲しているのかよくわかっていない、ということもありうる(自分に近いことのほうが理解しにくい、みたいなやつ)
どういうのが日本で日常体に行われている「政治の話」なのか
芸能界なり経済界での炎上とかきわめて政治的な事象だと思う
海外でも起こることだが。
メタ的だが「政治の話とかはちょっとね、、、」という態度/言明が、日本の「政治の話」である、と見えなくもない
日本的ニヒリズムとどう付き合っていくか、みたいな政治的コミュニケーション
政治の話を忌避すること自体が、国政に対する一種の抵抗として機能している側面はある
監視機能を弱める分、国政の権力を強めている側面もあるので両義的に捉える必要あり
これ「人間は
政治的動物である」を言い換えてるだけな気がしてきた。