Kozaneba:言語の現象学について
Kozaneba:言語の現象学について
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2021-12-12
普段の盛り上がりと比べると全然盛り上がらないですな、フェルトセンスの形成が進んでないからだ
「言語の形相学」って言葉が思い出せなかった
思想は言語がなければ私的な現象、それが言語を通じて相互主観的な価値になり、それからイデー的な現実存在を獲得する
メルロポンティとフッサールの違いは?
今これを読むのは迷子になる感じがある
はっ気づいた
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あなたが価値を感じているのは何ですか?
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なんでフッサールを理解しようとしてるのかって話だな、ユージンジェンドリンの考えが言語化されてないものをどうやって言語にするかというところにフォーカスした、とても自分の実用的目的にマッチしたものだったのでそれを勉強してて、彼が紹介してたメルロポンティの文章を取り寄せて読んでみたらそれはフッサールの解説をしてから発展させるものだった、なのでちょうどいいからそれを実験台にして難解な本を読んで理解するプロセスをKozanebaを使って進めてみる実験をしたわけ
これすごく大事なことを言ってるのでは
つまり僕はユージンジェンドリンが引用したメルロポンティの
表現するとは自覚することの文脈が知りたかったのだ、それでこの本を買った
フッサールのことが知りたかったわけではない
フッサールの紹介部分を読んで「わからない」という気持ちではない、むしろ「わかった」と思ってるからKeichobotで検証しようとした
しかし話が膨らまず、適切な質問も出なかった、まず聞いてモードでもうまく話せなかった、これは話すためのとっかかりが僕の中にないから
ユージンジェンドリンの話になった途端に饒舌になっている、それはここにはフックがたくさんあるから
「語る主体にとって、表現するとは自覚することである。彼は単に他人たちのために表現するのではない。自分がねらっているものを、自分自身で知るために表現するのである」
まさにこれが問われて答えられなかったフッサールとメルロポンティの違いである
フッサールは「言葉の意味が先にあって、それを使って表現する」ではなく「言葉を使って表現しようとし、それによって意味が作られる」と考えた
この時の表現する目的は他者への伝達であった
しかしメルロポンティは、他者に伝達する時にのみ頼りとされるものではなく、我々による意味の獲得である、とした
この文脈で「語る主体にとって、表現するとは自覚することである」がくる p.119
「表現するとは、他者に思想を伝達するということ」ではない、ということ
フェルトセンスの形成が進んでいないのではなく、適切な問いが投げかけられてなかった、ということか
ちなみにどこでもメルロポンティを知ったかの件、たぶん
暗黙知の次元だと思う
「話しうる以上のことを知っている」
関連がありそうだ
2021-12-14
言語現象
二重の課題
意味するものと意味されるものとの関係 沈殿