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続きはまた今度


「続きはまた今度」
> 講談は歴史上の人物や出来事を脚色して面白く大衆に伝える芸事。現代においては、その役割の大半をマンガが継承して担っていると思うんです。 毎週1話の連載というのも、「続きはまた今度」という高座のよう。本来、講談師がもっと頑張らなきゃいけない部分であり、申し訳ないような、悔しいようなという心持ちでマンガを読んでいます。 BRUTUS(ブルータス) 2020年 6月15日号 No.917 マンガが好きで好きで好きでたまらない

ひらばのひと
モーニング・ツー 11月号 ひらばのひと 第1話
「続きはまたの機会に申し上げたいと思います。本日はこれにて!」

昔々、そのむかし、の話
> 昔、研究室に軽音楽部のヤツがいて、 Run-D.M.C と ジャズとマンガをおそわったんだけど、当時のオレにはマンガしか響かなくって、 https://twitter.com/taizooo/status/1287779756633493505
> ヤツは単行本を完全否定してて、毎週毎週、最新話を読むことに意味があるって言ってて、 https://twitter.com/taizooo/status/1287780141725229056
> そんなことを急に思い出した https://twitter.com/taizooo/status/1287780206002835465
神田伯山、ブルータス「続きはまた今度」の話を読んで、思い出した
> 「じゃあ途中から読み始めるオレはどうすりゃイイんだよ!」って言ったら、たしか「じゃあオマエは、新しい友達が出来たら毎回、小学生からやり直すのか?」と言った。「オレは初めて見るドラマが最終話でも観るけどな」とも言ってた https://twitter.com/taizooo/status/1287781398355402752
じゃあオマエは、新しい友達が出来たら毎回、小学生からやり直すのか?
まだ kindle もスマートフォンもなかった頃の話です
作者が「勝手にキャラクターが動き出す」みたいなこというんですけどそういう物語ががまさに形作られていく過程を同期的に共有することと、完成されてしまったアーカイブをダーっと一気に非同期的に消化(消費?)することは、全く違う体験なのだ、みたいな話をしていたと思う
それは、世界の 始まりの話、終わりの話 でもあり、終わっていく世界で生きること でもある

断片的な情報から物語を組み上げて
講談、前座の人は、本当に話の枕のところまでで「と、カクカクシカジカではございますが、続きはまたの機会とさせていただきます」って言って下がっていく
現実の世界では、アマゾンで初巻からまとめ買いして全部のストーリーを最初から確認するなんて出来なくて、断片的な情報から物語を組み上げて、目の前の出来事を理解したりする

関係あるかもないかも

ポップ中毒者の精神