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日本文学史概観(近世以前)

歴史書
漢字が伝来するまで文字を持たなかった日本人は、口述や神話や伝説、民話などを語り伝えてきた。漢字に出会うまで、私達の先祖であるヤマト民族は文字というものを持たなかった。ヤマト民族は、文明化の入口に立った弥生時代に、やっと中国の漢字と出会った。遅くとも紀元前一世紀頃には漢字に接していたヤマト民族は、六世紀頃になって、ようやく漢字・漢文を本格的に使うようになった。→漢字・漢文の受容
私たちの先祖が語り継いできたものを、漢字の伝来により書き留められたことによって成立したのが『古事記』と『日本書紀』である。両者ともに八世紀前半に成立した

地誌
地誌とは、諸国の地名の由来。伝承・産物などを記録したものである。地誌として有名なものに風土紀がある。現在では五つの国の分しか残っていないがその中でも完全なものが出雲国である。

詩歌
当時はもちろん漢詩文だった。漢詩文の分野では懐風藻が有名。現存する最古の漢詩集である平安時代に入ってからは、『凌雲集』、『文化秀麗集』、『経国集』が編纂された
平安時代の三集は、いずれも勅撰集
特に有名なのが、八世紀後半に成立したとされる万葉集だろう。これは現存する最古の歌集である。額田王天智天皇柿本人麻呂山上憶良大伴家持などの歌人の歌が収録されている。
しかし、『万葉集』は勅撰和歌集(天皇や上皇の命令で作られた歌集)ではない点を留意しておく。
『万葉集』の研究書としては、江戸時代の契沖の『万葉代匠記』、賀茂真淵の『万葉考などがある。真淵はその中で、『万葉集』の歌風を「ますらをぶり(率直で素朴な歌風)」と評した。

物語文学・擬古物語
作り物語」とは、架空の人物などを題材とした物語を指す。このうち『竹取物語』源氏物語』の絵合の巻で「物語の出来始めの祖」と評されているように、現存する最古の物語である。当時の物語は伝奇的な性格が強かったが、次第に写実性を強め、宇津保物語、『落窪物語などが生まれた。『宇津保物語』は、現存する最古の長編物語である。
歌物語」とは和歌を中心とした短編物語集のことをいう。中でも伊勢物語大和物語は有名である。ちなみに、『伊勢物語』の主人公と見られる在五中将とは在原業平のことらしい。『伊勢物語』は西暦900年前後、『大和物語』は西暦950年前後に成立した。
『源氏物語』は、西暦1000年前後に成立した作り物語である。上記の伝奇物語や歌物語の内容。女流日記の内容の文体などを汲んでいる。この物語の作者は紫式部。藤原道長の娘・彰子に使えた女房である。『源氏物語』は「擬古物語」や「歴史物語」を生むなど、後の物語文学に大きな影響を及ぼした。
江戸時代に本居宣長は、『源氏物語』の世界観を「もののあはれ」と評し、日本文学における最高傑作であるとした
『源氏物語』の流れから生まれた「後期物語」として覚えておいてもよいのは浜中納言物語堤中納言物語。後者には「虫めづる姫君」などの短編が収められている。
擬古物語」とは、後期物語の流れをさらに受け継いだもの。特に『源氏物語』への憧れから、その頃用いられていた文体やモチーフを真似して書かれたものであり、一般的に文学的評価は低い。しかしこの中では住吉物語は有名だろう。「継子いじめ」を主題としている点で、上記の『落窪物語』と関連している。鎌倉時代初期に成立した物語評論である『無名草子』には多数の擬古物語の作品名を見ることができるが、散逸してしまっているものも多い。

歴史物語・軍記物語
栄花物語大鏡歴史物語として知られている。両者ともに西暦1000年前後の時代を扱っている。成立は『源氏物語』→『栄花物語』→『大鏡』の順である。藤原道長の栄華を称賛しているのが『栄花物語』であり、反対に批判しているのが『大鏡』、と対比したものとしてよく扱われる。また、『大鏡』、『今鏡』、『水鏡』、『増鏡』をまとめて「四鏡」と称される。
史論では、慈円の『愚管抄』と北畠親房の『神皇正統記』が知られている。アープラにいるこぼたんさんがよく読んでいる。
戦乱の様子を描いた「軍記物語」においては、まず十世紀半ばに起きた平将門の乱をモチーフとした『将門記』が成立した。前九年の役のことを記した『陸奥話記』とともに、軍記物語の先駆けとされる。
鎌倉時代に入ってからは保元の乱・平治の乱に題材をとった『保元物語』『平治物語』が知られている。
平安末期~鎌倉幕府成立までを描いたものに『平家物語』があり、仏教的無常観に基づいた作品であるとされる。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす~」で始まる冒頭は有名。これらは平曲という、盲目の琵琶法師が節を付けた形で語られたが、その中で多くの異本が成立した。その一つが『源平盛衰記』がある。
その他に知られている作品として、鎌倉幕府滅亡~南北朝時代の動乱を描いた『太平記』と、兄弟の仇討ちを描いた『曽我物語』がある。
これらの軍記物語は、和漢混淆文という仮名で書かれた和文体と漢文訓読体の混じった文体で描かれた点にも特徴がある。

日記・紀行
それまで漢文で記されていた日記を初めて仮名で記したのが『土佐日記』である。作者の紀貫之が土佐守の任期を終えて、京都へ帰るまでが描かれている。「男もすなる日記というものを、女もしてみむとてなり」という冒頭は有名なように、『土佐日記』は平仮名で記すのに、女性に仮託するという方法を用いた(当時は漢字のことを「真名」「男手」、平仮名のことを「仮名」「女手」と呼んだ)。また、『土佐日記』は現存する最古の仮名日記である。
次に成立したのは藤原兼家の妻が執筆したとされる『蜻蛉日記』。現存する最古の女流日記文学。兼家の孫にあたる和泉式部と紫式部は、それぞれ『和泉式部日記』、『紫式部日記』を書いている(前者の方が若干早く成立したとされる)。
次に知られているのは菅原孝標女の『更級日記』。『更級日記』にはまだ少女だった作者が『源氏物語』を夢中で読んだことが記載されているため、『紫式部日記』よりもあとに成立したとされている。
鎌倉幕府で知られているものに『十六夜日記』がある。作者の阿仏尼は、藤原定家の息子の妻。藤原定家らが編纂した『新古今和歌集』は一二〇五年成立であるため、阿仏尼が活躍した時代も鎌倉時代だと見当がつく。
仮名日記が行われる中であっても、漢文での日記もまた続いている。小右記明月記が有名か。

和歌
天皇、または上皇の命令で編纂された歌集を「勅撰和歌集」という。最初の勅撰和歌集は『古今和歌集』である。それ以降、二十一の勅撰集が編まれたが、知られているのは『新古今和歌集』までの八つ(「八代集」)である。その中でも、最初の三つ──『古今和歌集』、『後撰和歌集』、『拾遺和歌集』──は「三代集」と呼ばれている(「三大集」は『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』を指すため注意)。
ここでいう「知られている」はよく読まれる、高名であるということ
私家集(家の集)」とは、個人の歌集のこと。西行の『山家集』、源実朝の『金槐和歌集』が有名。
平安時代には、漢詩や和歌に節をつけてうたう朗詠が盛んになったが、朗詠をするのに適したものを集めて藤原公任が編纂したのが『和漢朗詠集。他に、後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』が知られている。
現存する最古の歌論は、奈良時代に成立した『歌経標式』である。それ以降も、和歌を論じた書物が多く著されたが、鴨長明の『無名抄』はよく知られている。鴨長明の他の著作には『方丈記』(随筆)、『発心集』(説話)がある。

随筆・説話
日本三大随筆は、『枕草子』『方丈記』『徒然草』である。
枕草子』の著者は清少納言で成立は一〇〇年頃とされている。清少納言は一条天皇の中宮である藤原定子に仕える女房だったが、内容はその宮仕え中の見聞きを記した「日記的章段」、「山は」「川は」などの出だしで事物を列挙した「類聚的章段(物尽くし)」、自然や人事に対する感慨を述べた「随筆的章段」に分けられる。『源氏物語』が「あはれ」の文学であるのに対し日本文学史概観(近世以前)#6016b3517ab6000000a2e98a『枕草子』は「をかし」の文学であるとされている
方丈記』は鴨長明の作品で、成立は一二一二年。
徒然草』は吉田兼好(兼好法師・卜部兼好)の作品で、成立は一三三一年頃。
『枕草子』を抜いたこれら二つはともに、「無常観」がキーワード。どれも世俗を逃れた隠者文学である。
説話においては、『日本霊異記』が現存する最古の説話集。他には、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などが有名。

連歌・俳諧
連歌とは、和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を別々の人間が詠んで一首の和歌にしたり、「五七五・七七・五七五・七……」と長く続けるような文芸のことを指す。古くは『万葉集』に収められている。
ヤマトタケルの「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」の問いかけに老人が答えた逸話がある(古事記)
このことから連歌の異称を「筑波の道」という。菟玖波集、新撰菟玖波集、さらには犬筑波集もこれに則っている。
鎌倉時代には、和歌的伝統に基づいた情趣を詠んだ「有心連歌」滑稽な内容を詠んだ「無心連歌」に分かれたが、貴族たちの間では次第に前者が主流となった。鎌倉時代後期には、連歌は武士・僧侶・庶民の間にも広がった。
その連歌を正当な文学としての地位にまで引き上げたのが、南北朝時代の二条良基である。彼は連歌集『菟玖波集』を編纂し、その後、心敬宗祇らによって文芸として完成した。
しかし、宗祇亡きあとは有心連歌は急速に衰え、無心連歌の流れを汲む「俳諧連歌」に発展した(「俳諧」とは〈滑稽な〉という意味)。山崎宗鑑の『犬筑波集』が代表的な俳諧連歌集。
室町時代の終わり頃から俳諧連歌の発句(初めの五・七・五)だけを独立して詠む風習が確立した。これを明治時代になって正岡子規が「俳句(俳諧連歌の発句)」と呼び、現代の我々も用いている。
江戸時代になると、松永貞徳(貞門派)・西山宗因(談林派)などが現れて、俳諧は興隆した。その中から登場した松尾芭蕉は、俳諧を独自の手法で発展させた。芭蕉の俳風は、「蕉風(正風)」と呼ばれ、その基本理念「さび」「しをり」「ほそみ」「かるみ」、また「不易流行(俳諧は不易(変わらないこと)と流行の両面がある)」などと説明される。他に知られている俳人に、『新花摘』の与謝蕪村、『おらが春』の小林一茶がいる。



参考書籍:『SPEED攻略10日間 国語 文学史』Z会編集部編