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ムージルの詳しめのプロフィール
ムージルの詳しめのプロフィール
Robert Musil1880年11月6日 - 1942年4月15日……ローベルト・ムージルムシルムジールムズィールなど日本語での呼ばれ方はさまざま。2023年現在は「ムージル」が多い。)


概要
オーストリア出身のエンジニア、実験心理学者、軍人、エッセイスト、作家。20世紀前半の文学を代表すると評される小説『特性のない男』の作者。ローベルト・ムージル (Robert Musil、1880年11月6日 - 1942年4月15日)は、オーストリアの小説家・劇作家・エッセイスト。 長編小説『特性のない男』は世界的に高い評価を受けており、しばしばジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』や、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』と並び、20世紀前半の文学を代表する作品とみなされている。小説については寡作であったが、多数のエッセイを発表し、特に1910年代から30年代にかけては積極的にジャーナリズムに関与した。https://ja.wikipedia.org/wiki/ロベルト%E3%83%BBムージル


活動

メーテルリンクエマソンカントニーチェドストエフスキーやエルンスト・マッハキリスト教神秘主義の影響を受け、徹底した理性批判言語批判を通して可能性感覚新しい人間合一エッセイスムスなどのテーマを生涯追及した。新即物主義の傾向があるとも指摘される。
(ムージルが生きた時代に隆盛したリングシュトラーセ様式。『特性のない男』にも登場する)


経歴
(ムージル、1900年
1880年11月6日、クラーゲンフルトに生まれる。幼少期をコモタウ(現チェコのホムトフ)、シュタイアー(オーバー・エースターライヒ州の都市)で過ごす。シュタイアーにはギムナジウムがなかったため、ムージルは成績優秀にもかかわらず実科学校に通った。一家は1891年にブリュンへ転居するが、そこでもやはり実科学校に通う。ブリュンで出会った二歳年上の友人グストゥル(グスタフ)・ドーナトから性に関する知識を得るなど、早熟な少年だったムージルは、両親、特に母親との衝突と「ナポレオン的」なものへの憧れからアイゼンシュタットの陸軍初等実科学校へ進み、メーリッシュ・ヴァイスキルヒェン(チェコのフラニツェ・ナ・モラヴィェ)の陸軍上級実科学校に学んだ。やがて機械工学の道に転じてブリュン工科大学に入学。 その後再び哲学に転じると、ベルリン大学でエルンスト・マッハ研究により博士号を取得する(1908年)。しかし結局、処女作『士官候補生テルレスの惑い』(1906)で踏み出していた作家としての道を選ぶ。1905年には「特性のない男」の草案を日記に書いている。https://ja.wikipedia.org/wiki/ロベルト%E3%83%BBムージル
ジュネーヴの墓)
ベルリン大学ではカール・シュトゥンプ、ゲオルク・ジンメル、マックス・デソワールフリードリヒ・シューマンらの教えを受けた。大学の卒業論文は新カント主義の立場からマッハの認識論を検討・批判するという内容のもので、「並」の評価を得て卒業した。これについてはweb上で読むことができる今井道夫の論文「ローベルト・ムージルの学位論文 : 『マッハ学説の判定への寄与』の検討」に詳しい。/《その後短編集『合一』(1911)、『三人の女』(1924)、『生前の遺稿集』(1935)などを発表、客観的で透徹した認識を保ちながら、理性や言語を超えた神秘的とも言える世界を追求する。1919年、「特性のない男」の仕事に本格的に取り組み始める。ムージルの名を世界的なものにしたのは、唯一の長編にして未完の大作『特性のない男』である。第一次世界大戦直前のウィーンを舞台にしたこの小説は、1930年に第一巻(第一部、第二部)がローヴォルト社から五千部出版された。ムージルは1931年に再びベルリンに移るものの、1933年ナチスの政権奪取後はウィーンに戻り、1938年にはスイスに亡命、この時彼の書物は発禁処分を受ける。最後はジュネーヴでこの大作の完成に心血を注ぐが、1942年シャワー室の中で脳卒中のため急死した。https://ja.wikipedia.org/wiki/ロベルト%E3%83%BBムージル


作品
作品に長編小説『若いテルレスの惑い』(当会でもテルレス読書会が行なわれた)、短編小説『愛の完成』『静かなヴェロニカの誘惑』『三人の女』など。ムージルが死の直前まで心血を注いだ遺作にして代表作、未完の大長編小説『特性のない男』は二十世紀前半の小説の高峰のひとつに数えられている。死後、膨大な日記と遺稿が残された。遺稿はCD-ROM化されている。 (日本語で読める作品については、ムージルの日本語訳のページも参照のこと。)
(『特性のない男』)

反響
(ムージル文学館。暮らしていた家)
死後しばらく注目されていなかったが、1949年イギリスの新聞に書評が掲載され、再び脚光を浴びた。《生前のムージルはけして無名の作家というわけではなかったが、小説家として寡作なこと、その作品が必ずしも大衆的ではないこと、そしてナチスによって主著が禁書目録に載せられたなどの理由によって、一時は忘れられた作家となった。しかし1949年10月、ロンドン・タイムズ・リテラリ・サプルメントに掲載されたムージルについての紹介記事の一文(「今世紀前半のドイツ語圏の最もすぐれた小説家は、私たちに最も知られざる小説家の一人である」)を嚆矢として、アードルフ・フリゼー編集の三巻本ムージル全集(1952-57)の刊行をはじめ、世界各国での研究・翻訳がさかんに行われるようになった。https://ja.wikipedia.org/wiki/ロベルト%E3%83%BBムージル
海外ではミラン・クンデラインゲボルク・バッハマンなどが、日本では古井由吉大江健三郎が影響を受けた。/批判者にはアドルノベンヤミンやドイツ文学の重鎮だったマルセル・ライヒ=ラニツキなどがいる。/他の論者に、ブランショイタロ・カルヴィーノプレヒトなど。ドゥルーズ『批評と臨床』のなかでわずかながら触れている。
(ベンヤミン、1929年


エピソード

雑誌編集者時代にカフカの才能に注目(他にロベルト・ヴァルザーなどに対しても評価)し、雑誌への作品の掲載を打診したりしている(だが実現せず)。第一次世界大戦中の病気療養の際には彼の元を訪問もしている。そのころ、若きベンヤミンの原稿を読み、けっきょく掲載しなかったらしい。そのためかは不明だが、ベンヤミンはムージルに批判的なコメントを残している。/スポーツ万能で、両手づかいだった。食事など基本的なことは左手で、その他のことは右手で行った。/シュタイア実科学校の後輩にヒトラーがいる。/彼の人生において重要な事件に、ヴァレリー体験がある。/《ムージルにとって読むことと書くことは幼少のころから特別に際だった体験であり、ドイツ語の作文ではその長大さと巧みに盛り込まれた見解、豊麗な描写が教師を驚かせたが、自身では「綱渡り」のような興奮状態の内に書かれた文章も、読み返す段になると、「結局彼(ムージル)は転落するのだった」と日記で回想している。https://ja.wikipedia.org/wiki/ロベルト%E3%83%BBムージル
(カフカ、1915年
司書のころのエピソード


略年譜
以下、カール・コリーノ『ムージル伝記3』、ベルクハーン『ムジール』、プフォールマン『ローベルト・ムージル』などを参考に作成
11月6日午前5時、クラーゲンフルト市近郊ザンクト・ループレヒトに父アルフレートと母ヘルミーネの子として生まれる。
この頃、『テルレス』の原型となる事件に遭遇する(~1896年春まで)。
4月19日、『新ブリュン新聞』に「ヴァリエテ」掲載される(初めて実名で署名をした公刊作品である)。
10月末、『テルレス』刊行。
11月・12月、隔月誌『ヒュペーリオン』第六号に『魅せられた家』が掲載される。
5月末、『合一』および『テルレス』新版がミュンヘンのゲオルク・ミュラー出版社から刊行される。
8月20日、リンツにて国民軍に入隊。
4月14日、マックス・ブロートおよびフランツ・カフカを訪問。
5月1日、『メルケル』に「メロドラマ《黄道十二宮》の序幕」を発表。
3月、『新メルクーア』に「精神と経験――西洋の没落を免れた読者のためのコメント」(オスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落』に対する批判)を発表。
8月22日、ジビュレン出版社が戯曲『熱狂家たち』刊行。
春頃から、ハンガリーからの亡命者たち、とりわけ作家で映画批評家のバラージュ・ベーラや精神療法医ルカーチ・フーゴ博士と付き合う。ルカーチ・ジェルジュと知り合う。
1月5日、三幕からなる茶番劇『ヴィンツェンツとお偉方の女友達』がローヴォルト出版社から刊行される。
2月28日、短編集『三人の女』ローヴォルト出版社から刊行される。以後ローヴォルト出版社はムージルの作品すべての版権を握ることになる。
芸術家団体「グループ1925」に加わる。
5月、訪問客のアルフレート・デーブリーン、ムージルの長編小説の原稿に自分の名前を書き込む。デーブリーンは冗談のつもりであったが、ムージルは原稿の持ち主が自分でなくなったような気になり、その後何カ月も長編小説の続きが書けなくなる。12月29日、リルケ死去。追悼会開催の是非をめぐって、ベルリンの「グループ1925」内部に激しい議論が巻き起こる。ブレヒトは反対したが、ムージルは賛成し、ムージルの意見が通る。
(デーブリーン、1946年
1月16日、ベルリン、ルネサンス劇場で催されたリルケ追悼会にて講演。2月6日、ベルリンの「ラジオ講座」の連続放送番組「現代の名匠」に出演。『テルレス』、『熱狂家たち』、未刊の長編小説『特性のない男』からそれぞれ一部分を朗読(このとき『特性のない男』という表題が初めて公にされる)。2月14日、『リルケ追悼講演』刊行。
(リルケ、1900年
4月8日、正式に『特性のない男』と名づけた長編小説を部分的に発表しはじめる。第八章にあたる「カカーニエン――断章」を『ターク』に発表。
9月半ば頃、ベルリン。経済状態が逼迫。美術史家クルト・グラーザーによる後援のもと、ムージル協会が設立される。同協会は銀行家クラウス・ピンクスとともに、およそ二万マルクを調達。しかし会員の大部分がユダヤ人であるため、同協会は1933年1月30日のヒトラーの政権掌握以降、散り散りに。
12月19日、ローヴォルト出版社から『特性のない男』第二巻刊行。
8月末から、ヘルマン・ブロッホに対して自分のエッセイを剽窃したと非難。ブロッホは誠実に対応し、ムージルの非難を退ける。
(ブロッホ、1909年
5月、ムージルの友人たち、「ムージル基金」設立を呼びかける。結果、約400シリングという下級公務員の月給程度の金額が、さしあたり一年間毎月支給されることに。
12月半ば、チューリヒのフマーニタス出版社から小品集『生前の遺稿』刊行。実売数、数百部。
3月13日、独墺合邦アンシュルス)。ムージルの友人や知人のうち、多数のユダヤ人がオーストリアを去ったため、ムージル基金の経済基盤は崩壊。
10月10日、『特性のない男』がドイツ国内全域で「禁書に指定された」旨、ウィーンのベルマン=フィッシャー出版社管財人から書状により通知される。
第三帝国がムージルの全作品タイトルを「1941年版 有害にして望ましからざる著作リスト」に載せる。
4月15日午後1時、ジュネーヴで脳卒中に襲われ死去。