ノート(イ)
>そうだ。君は何時も逆さまにはなしはじめるのさ。事柄の最後からいきなり説明しはじめる。ぷふい、……
『死靈』三章
オンリーなロンリーな論理
グローリーにグロッキー
蚕とパイポ
『死靈』は、時間への旅を逆さまに辿った物語である。
アープラ系でやること
雑誌に書く文章
小説、詩、エセー、妄想……なんもわからん。文学書を1ページでも精読してながなが妄想を書く、とかだと一石二鳥?
これは期限が決まっているので、留めておく
まず決めるところをエスコート? 詳しくないケド
アープラノート
ほむほむ、さまざまなフォーマットを横断して駆使して話し合うのもオモロイ。
面白そうなイベント、プロジェクト、祭り、見つけたり誘われたらチェックして参加。
個人で
2025年に『死靈』か三島由紀夫を精読みたいな計画は前に書いた。で、2025年になったので、文学書を何か読んでいくことについて、考えていく。これはさしあたり個人。
ハイデガー=埴谷について、とりあえず『存在と時間』をちまちま……これは牛歩でいこう。『形而上学入門』は、どうしよう、読みながら、どうしようと考えている。
読む本
講談社学術文庫の『今昔物語集』『宇治拾遺物語』『古事談』
ハイデガー『形而上学入門』『存在と時間』
文学者と芸術家の違い
悲劇と哀悼劇
「芸術性」と「生産性」
「解決」と「進歩」
「いやらしさ」「海藻」
以下の作品は、それぞれの筆者の遺作となった小説である。西暦は享年である。
『特性のない男』 1942年
『豊饒の海』 1970年
『死靈』 1997年
『2666』 2003年
ボラーニョは三島由紀夫を読んでんじゃないか?嫌いではあるだろう。
誤読することによる当面の救済としての制度構成。それを恒久的なものにできないか。
誤読することで秩序を保っている。それがやがて読まないことで秩序を保つようになるだろう。
精読することによる奈落への落下。それを構造化・見える化して回避できないか。
エンターテイメントの奈落性。B級の深淵。
ナチズムとムージル。ナチズムがムージルを没落させ、『特性のない男』のプランを変えた、ひょっとしたら「未完」ということに関係した、ということは類推可能だろう。逆にムージルがナチズムに与えた「影響」、これについては現状類推しようがない。この点に関しては、「文学の政治に対する無力」を弁じた三島由紀夫が正しいように察される。だが、いうまでもなく、『我が闘争』よりも『特性のない男』を現代の私たちは読む。いや、そうではない「場」もあるかもしれないが。しかしムージルもまた、当世風ではない。ヨーロッパやアメリカ?では、そこそこ読まれているようだ。研究もされている。ポッドキャストの話題なんかにもなる。日本では?流通が少ないうえ、好事家の読み物、と把握されている。ところで、ナチズムと闘った作家は誰だ。え?トーマス・マン?とんでもない。日記だけ読んじゃだめですよ。『ファウストス博士』を読んでみなはれ。
生きているうちに人類を平和に閉じこめてしまいたいVS死んだのちも戦争というかたちで存続ねがいます、どちらが神聖か、邪悪か?
人生をパーティと考えるニーチェへの対案……各人がボランティア的に残酷さへ対処していく……人生をキャンペーンと考える。
フォークナー―三島由紀夫―ボラーニョの線……暗示者
ドストエフスキー―大江健三郎―村上春樹の線……予定調和
メルヴィル―ムージル―埴谷雄高の線……大風呂敷
紫式部―セルバンテス―トルストイ……原型
全体を、総合を書くということは、その実、あらゆる形式/様式の関連を書く、つまり分散した世界の裂け目=裂け目の両端を書く、つまり現存する諸大陸を書くことで失われた超大陸を書く、大地の裂け目=裂け目としての大地。不吉を、不在を、不満を、不快を、不安をもよおさせる暗示=全体としての世界が啓示される時への悪阻。
全体小説、総合小説はドミナントである。長大な冗長な記述の全てがある解決へ向かうが、決して解決が鳴らされないシンフォニー。トニックが遠くの大陸で鳴っている=深海の歌。「音楽」(クラシカルな西洋音楽体系)と「文学」(近代小説)の本質的な方法の分かれ目。つまり、「音楽」は解決されなければならず、「文学」は解決寸前に向かわなければならない。「音楽」の理想は調和(の現前)であり、「文学」の理想は破綻(の現前)である。「芸術」というカテゴリーで見れば、両道の目論むところは共通する。
創作メモは、その作品の研究にとって重要なものであるが、作家が複数の核となる重要な点を作品に反映させていることを加味すると、ある採用されなかった断片であると考えることができる。もっとも、その断片はまた複数の可能性をもつアイデアの集積である。
「海」は、絶対のアナーキーである(『天人五衰』)。創作-小説もまたアナーキーな営為/結果であるとすれば、それは海を前にした/海に潜る行動であるに違いない。だが、アナーキーが海であるとは限らない。乱雑さがそのまま無意識を表すわけではないように。アナーキーを海にするために、収穫の土壌を整え、耕し、豊かにする必要がある。
後続する作家のあり方に、先行する作家がこたえている場合
言及されない/評価が定まっていないという場合
「変身」(「変化」)をテーマとせず、状態として記述するということ
『特性のない男』
ムージルの書いた小説。未完。大量の遺稿がある。
↑こういうのをnewpageにしていく。
『美しい星』
白鳥座からの使者。大学教授の羽黒、床屋の曽根、銀行員の栗田
ニーチェでウォーミングアップして、今年最初の『存在と時間』読みに突入。パラパラ見返す。
私はある哲学・思想書(または文学書)を久しぶりに読むとき、ざっと読み返して、その輪郭を思い出します。また書き込みや書き抜き、メモを反芻して今までの読書をだんだんと思い出していきます。そして身体をその本に慣らしていきます。それから、新たな部分を検討して掘り崩し、積み直していきます。私にとって良い本とは、そうしていくことが必要であればあるほど、良い本です。距離を持つ本でないと、吟味に耐えることはできません。私は今までの全読書を用いてそういった本を読みます。ですから私の読み方は学問的に体系的ではありません。『死霊』と『存在と時間』を同じ俎上で扱います。話のタネや、テスト勉強ではないので、気が楽でもあり、のしかかる重みでもあります。
『存在と時間』は良い本のひとつです。私が哲学(書)に求めるもの、慎重さ、堅実さ、正確な洞察、そして大胆な魂胆があります。私はほかのさまざまな本とともに、この本に付き合っていきますが、ひとつの中心の目となっています。つまり、本に限らず、ある記述を読むたびに、この本およびその著者であったらどうこの記述を読むか、と妄想するかなめとなる書物。
『死靈』の俗流実存的効能
おお ゼウス! 埴谷雄高の『死靈』を、読者を元気づけるために、ぶっ生き返すために読むという読み方――べつにあんまし好きくはないけんど――で考えてみたら、どうだろう?
先生! でも生きてる人がでてきません! 生きてる設定ですけど、なんか暗く、幽霊なんじゃないでしょうか?
――ククク、良く気付いたな……そのとおりかもしれん。だが、生きる力を失いかけているどんよりした読者は、そこに自分をみいだすだろう――知らんけど……
たしかに、なんだか共感できますね! 全員狂ってるけど
『虚構船団』もビツクリの狂いぷりだじぇ……まあ読んだことないけど
でも、元気づけられるという点では、もっと読みやすくて、わかりやすい小説のほうが、良くありませんか?
ふーん、君はそういうの好きなんだァ……でもね、世界には、もうトコトン暗い夜の世界ぢやないと、満足しない人もいて、そういう人を元気にするには、トコトン暗くて、トコトン荒唐無稽な話をしてあげんといかんだに。
へー理解不能!
まあいいさ。何でも良いですよ。君は虚体を知ってる?
『死靈』のもくひょうですよね! ぜんぜん理解不能!
それでも良いですよ。俗流実存的には、わけわかめな目標、は?それなんなの?っていう猫ミームみたいな目的が要るんだよ……だって、幽霊をぶっ生き返すんだからね……それくらいしなきゃ、いけませんや。
で、で、でも、あのォ、死靈って、途中から、雰囲気とか、目的とか、なんかかわってません? いや、これは人が話してた話なんだけドゥ
ん? んーーーよく気づいたね。そうだよ。ソウナンデス。ヒルナンデス、じゃなくてヨルナンデス。実はね、俗流実存的効能を狙った読み方によって、その理由も推しはかることができるカモしれんだ。
へえ~えへぇ~えへ~へえへ~。そりゃモーレツやね。なんで?
フフ……Z世代君、それは、読んでみればわきゃるよ。読みながら考えな。
もうWikipediaやもろもろのソースであらすじは読んだよ。未完なんでしょ!読むか迷ってるぅ~
えらい! よくそこまで読んだね。第一関門突破!!本文まであと一歩だ。
よし!ブックオフに急がなきゃ(宿命感)!!
……読み終わったとき、君はぶっ生き返される――。おお ゼウス!
~未完~
津田夫人がもうひとりかふたり『死靈』の世界にいたら、
宇宙がガタガタに崩壊してしまう。観念のもろさと絶妙のバランス。
三島由紀夫の誕生日か……何時何分にうまれたんだろう?全集に書いてあるかな。
> およそ生きとし生けるもののひとりにも伝えてはならぬこれは永劫の秘密だ。自らが自らの王となるものは、ひとびとの息がかようところにいてはならぬ。……」