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ばる日記2
こんにちは。リクトー
こんにちは。

このページはばるさんがただ日記を書くだけのページです

ばる日記もあります
ドキドキワクワク。一体何が書かれるのだろう!? リクトー
たいしたことは......

>2022/9/14

ジャン・リュック・ゴダールが亡くなった。
僕はゴダールの映画は全部チェックしてるほど熱狂的なファンではないが、創作に関しては彼からインスピレーションをうけた面が多いので、やはりショックというかなんというか。

千葉雅也さんが、Twitterで「ゴダる」についてつぶやきをしていたが、僕のゴダールの編集に対する印象がこれである。
僕は創作のある一面で、「ゴダる」に近いものをやりたいという気持ちがあり、たまに実践している(うまくいってるかは聞かないでね)。
僕はこの「ゴダる」を(勝手にひとりで)「ゴダリズム」という呼び方をしていた。

踊る猫さんが、ゴダールのリズムについて語っていたが、関連があるのかもしれない。ないかもしれない。


>2022/6/20

暑くなってきたのでしんどい。

「音楽というものは本質的になにものも表現しえない。」とストラヴィンスキーは言った。
つまり、音楽は作曲家や演奏家によって”表現されているわけではない”。ストラヴィンスキーは作曲家を表現する主体として考えていなかったということだろう。
「この音楽は何かしらを表現している」という意見は、鑑賞者の解釈によって出てきたものだということ。
ある音楽はその鑑賞者の文化的背景や気分によって、軽薄な曲にも重厚な曲にもなり得るだろう。

メルツバウに対するこのインタビューを読むと、彼の音に対する即物的な態度であるとか、そういうのが垣間見える。
> 音っていうのは何か背景があるもんじゃなくて、もっと即物的なものだと思うんで、音を聴いてそこから背後にある思想を感じ取るとかはあまりできないと思います。でも、例えばタイトルであったりとかメッセージとかを総合的に見てもらうと、アニマルライツとの関係を感じる事ができると思います。音楽自体にそういう関係性を感じられるかっていうのはわかりませんね。

この辺は音楽のの側面は排除された純粋な音の話である。

佐々木敦さんがメルツバウ論を書く(予定)らしくて楽しみだ。

僕がメルツバウの話をよく書いているので(そもそもメルツバウって誰だよという話かもしれないが)好きだと勘違いされそうだが、まあ好きなんだがそんなに好きでもないっていうか......そもそも音源もそんなに聴いてないしな。彼と灰野敬二さんはそこらへんを突き進んできた人ではあるし、興味対象ではある。

そういえば音楽系の本の読書会を開くのを忘れていた。忘れていたというか、なんか疲れているので保留しているのが本音じゃけんね。

色々書きたいことはあったのだが、いざ書くってなると、結構忘れるよね。まず日記とは日々の行動や行為について書くとスムーズにいきそうである。
最近は、仕事とレコード蒐集、(著作権のなくなった)昔のレコードや音源からサンプリングする日々である。

日課や自分の興味分野の勉強を地道にやってる人は尊敬するよね。アープラにもそういう人は結構いるとオモ。で、そういう人ほど案外目立たないんだよな。

世の中には刺激が多いので、なかなか一つのことに集中することは難しい。そんな中でもサンプリングは欠かさずにやってきた。サンプリングを欠かさずにやってきた人ってヤバいな。


ヤン・シュヴァンクマイエルオテサーネクって予告だけでもやばい雰囲気あるよね。

オテサーネク、今日仕事終わりに視聴したが、これ面白いなあ
シュヴァンクマイエルらしいストップモーション・アニメーションは主に食人木の動きで発揮されている
父、母、子の関係でフロイトっぽいとこもありそうだが、人間が捕食者の立場として、すでに無意識に行っている"食べる"という行為を、被食者の立場に逆転させるという話
食べ物の醜悪さと口はシュヴァンクマイエルの映画ではよく言及されるけど、なんでもかんでも食べ尽くす人間を揶揄してんのかなあ


>2022/6/7

病院へ行く日なので休み。

バーニー・プラッツ=ミルズというイギリスの監督の映画が見たいのだが、どこにあるのだろう

キラ・ムラートワというウクライナの映画監督を知った

ゴシック・カルチャー研究家の後藤護さんが『woodlands dark and days bewitched: a history of folk horror』という映画について呟いていた。『ウィッカーマン』『ミッドサマー』のような土着のペイガニズムについて描く「フォークホラー」というジャンルを紹介する映画らしい。きになる。

Merzbow & Lawrence Englishのレコードが届いたので聴く。
なんか、パソコンで聴いてる音よりあまりノレなかった。これはたまにある(逆もある)。なぜだろう。

病院へ行った帰りに本屋で千葉雅也さんの『現代思想入門』と『ユリイカ2022年6月号 特集=ゲルハルト・リヒター』を購入。
平倉圭さんという方によるアブストラクト・ペインティングの分析が気になっていたので、帰ってそこだけ読む。
具体的にはリヒターの『一枚の絵の一二八枚の写真、ハリファックス一九七八年』という作品の分析。これは1978年にリヒターが描いた抽象画を様々な角度から写真に写し、128枚からなる白黒写真作品として構成された作品だ。アブストラクト・ペインティングのぼんやりした偶然性のみを見てしまいがちだが、むしろその偶然のパターンを再認するという話。
記号的形象も分析していて、こういうのは楽しい。詳しく言及してもアレなので、気になった方は読むと良い。

夜に『現代思想入門』も読む。イントロダクションと第1章のデリダまで。
非常にわかりやすい内容
デリダに興味が湧いてきた(小並感)

Dommuneブライアン・イーノ特集をやっているので読書と並行しながら観る。
イーノの音楽はライヒのような反復的な音楽ではなく、半永久的に変化していく音楽だという話
この感覚はよくわかる
イーノが、ジェネレーティブ・ミュージックという取り組みをやっているという話があった
これは、作曲家が音の構成を書き記していくような従来の作曲のやり方と違い、技術的なシステムのようなものを組み立て、そのシステムに音楽を創らせるというアイデアらしい。音楽を鳴らすのが人間というより、先に何らかの起動システムを作り、それに音楽を鳴らさせるみたいなやり方。
この辺の話もよくわかる。イーノは音を何かのシステムに放り投げ、その変化を楽しむような印象がある。
「なすがまま」みたいな感じ
イーノはWindows95の起動音を作ったのだが、Windowsの起動音を、Macで作ったという話は草


>2022/6/2-6/3

休みだったので、しっかり寝た。

昨日ハードオフでレコードを大量に買ってきた。いろんなレコードをカットアップやサンプリングする作業をしている。
ハードオフではクラシックやイージーリスニング系のレコードが100円程度で手に入る。
実はゲーム音楽のレコードを探しているが、ああいうのは結構高かったりする。

アキラさんが写真部で「リズム」の話をしていて思ったのは、撮影者もシャッターを押す(空間を切り取る)リズムを感じているということ。
この辺、『視覚論』という本の、ロザリンド・クラウスがしていたパルス(オンオフ、オンオフという一種の律動)の話を思い出したので、ちょっと読み直した。
相変わらず難しい(し、アキラさんの話とは特に関連性がない気がした)が、デュシャンの作った円盤の話など、気になった箇所は引用しておこう。
> ここで私が提起したいのは、リズム、ビート、パルス(オン/オフオン/オフオン/オフという一種の律動)の問題である。それらは視覚的空間の安定性を破壊し、その特権を奪うことを本性としている。なぜなら、これから述べるように、視覚性を支えていると思われる形態=形式の統一性そのものを解体し、溶解させてしまう力が、ビートにはそなわっているからである。
> エルンストのイメージから生じるさまざまな効果は、夢の空間のなかで形成されると考えられるが、その効果の多くをデュシャンは、一五年間にわたって作り続けたいくつかの回転円盤(図15・16)、すなわち彼が「精密さの光学」と総称する光学装置によって生じさせたと言ってよい。これらの装置からは、蓄音機のターンテーブルや、音もなくチカチカと明滅する初期の映画など、大衆文化におけるさまざまな表現形式との関連がうかがえると同時に、こうした表現形式の土台となった一九世紀の光学への言及もはっきり見て取れる。さらに「精密さの光学」からは、デュシャンがビートの動きによってイメージを構成することに強い関心をいだいていたこともよくわかる。そこでは、生体リズムのように収縮や膨張をくりかえしながら、前に突き出たり後ろに引っこんだりする螺旋の緩慢な律動によって、イメージが構成されていくのである。だが、それと同時に、そのパルスには、イメージの構造的な変質のようなものがそなわっている。イメージは固まっていくたびに、その後すぐに溶けていく。打ち震える乳房のイリュージョンが退いて、子宮の窪みのイリュージョンに取って代わり、それが今度は膨らんでいって突き出し、瞬く眼球に変質するのである。だが、これを形態変化と呼んでしまうと、このパルスが持つ形態破壊的な力を見逃すことになる。 イメージを絶えず溶解させていくパルスは、われわれが「形態」と考えるものの関心〔=自己保存の傾向〕をあくまでも崩していくのである。


Merzbow & Lawrence Englishの音源がSpotifyにあがったので、聴いてみる。
商品情報を読むと、「ENGLISHの住むブリスベンから北へ7時間の場所にある広大な工場群で録音されたフィールドレコーディングを使用した、ディストピアSFオペラのサウンドトラックのような作品。」と書いてある。
遠目に聞こえてくる様々な環境音があり、その中から秋田のノイズが立ち現れてくるのだが、結構凄い作品だと思う。工場群のフィールドレコーディングと秋田昌美のノイズを掛け合わせたというよりは、秋田のノイズもフィールドレコーディングの中に収まっており、かなりいいと思う。

ユリイカ2022年6月号はゲルハルト・リヒター特集である。
リヒター展には行こうかと思っている。久しぶりに東京まで出張るか。
そして今日から京都でブライアン・イーノの展示が始まった。https://ambientkyoto.com/
これも行かないといけない

コロナ以降全然アグレッシブに動いていなかったので、今年は結構動こうかな。

ネットショッピングでワイドなパンツを何着か注文した。
実は服を結構好きなのだが、アープラではほとんどそんな話はしたことないな。
日記らしくなってきた。

>2022/6/1-6/2

CDJ-350の機能は大まかなことはわかった。
早速CDJを使っていくつか音を作ってみたが、なんかしっくりこない。
僕がある機材を購入する際には、ある使い方を想定している。しかしいざ手元に機材が来て、想定していた手法で作っても、納得しないことが多い。
その機材に触れていくうちに、そのような想定内にあった使い方とは全然違った使い方が見つかるものだ。
今回のCDJもいろいろ触っていくうちに、「通常この使い方をしない」エラー的なやり方を見つけたので、非常に嬉しい。
このやり方でいくつか作ってみようと思う。

ドゥルーズの『アンチ・オイディプス』を読んでいる。一回では理解できないので何回か読んだ方がいいだろう。全部を軽く通して読むよりもある章を繰り返し読むという方が有意義な気もする(というかこの本、軽く通して読むみたいなことができない)。
生産のプロセスみたいなんがあって、我々はそれを連結するモジュールみたいなイメージでいいのだろうか。読んでいると、人間の「個体そのもの」がモジュールになっているというより、その呼吸と食事とか排泄とか愛撫とかより具体的な、身体的な行為が重要であるようだ。母親の乳房を赤ちゃんが吸う。この行為は生産プロセスの流れにある。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。
そして欲望がこのエネルギー源になっている
> プロセスとしての生産は、あらゆる観念的カテゴリーをはみだすものであり、欲望を内在的原理としてひとつのサイクルを形成している。
> 欲望はたえず連結を実現する。欲望は流れさせ、みずから流れ、そして切断するのだ。

音楽カフェ山下洋輔の話題があった。山下さんのライブ、一回日比谷野音で見たことがあったなあ。
山下さんの話になると、タモリを思い出す。タモリが早稲田を中退した後実家の福岡に連れ戻されていた時期に、渡辺貞夫のライブを見に行った。その帰りにタモリは友人の宿泊していたホテルで話し込んでいたが、別の部屋に騒がしい連中がいたのでその部屋に乱入した。その騒いでた連中が渡辺貞夫に同行していた山下洋輔トリオだった。そこでデタラメ朝鮮語の応酬をしたりなんやらして、大笑い大騒ぎして、タモリは帰ったらしい。その出会いがタモリが、東京の芸能界に進出する縁になっている。その偶然の出会いがなかったら、今のタモリは(おそらく)なかったと思うので、凄いなあ。

タモリつながりで、最近YouTubeで上岡龍太郎とタモリの『笑っていいとも!』での掛け合いを見てたのだけど、両者の型が衝突してる感じで、結構面白かった。
それを見ていて、上岡龍太郎がエルヴィス・プレスリーに憧れて、ロカビリーをやっていたこと、その関係で芸能界に入ったことを初めて知った。
上岡さんは自分には歌や演奏の才能がないとわかって、バンドの司会に回ったみたいな話だったが、ここタモリと一緒だなあ。タモリも大学時代にモダン・ジャズ研究会でトランペットをさっさと諦めて、司会に回ったみたいな話があった。
上岡さんの話芸のベースにあるのが、露天商の口上という話
露天商の巧みな口上に乗ってしまい、商品を買ってしまうが、商品自体はロクでもなかった。次の日に露天商に文句を言おうとその場所へ行っても、露天商はそこにはもういない......
上岡龍太郎の話芸はそういうものらしい(つまり、彼は帯番組は持たない)


>2022/5/25-26

充実していた
仕事が休みだったので、アントナン・アルトー『演劇とその分身』をちょこちょこ読む
あまり読んでいなかったのだが、面白く感じてきた。アルトーは残酷劇というものを提唱したが、ここでいう残酷とはサディズムや血のようなものではないらしい。
>私は残酷という語を、生の欲求と宇宙の過酷さと仮借のない必然性という意味で、闇を貪り食らう生の渦というグノーシス的意味で、その避けがたい必然性の外では生が自らを行使できないあの苦悩の意味で用いています。

夜にDiscordのVCに入る
人形球体関節人形のお話を聞けた
全然詳しくない分野なので、面白かった。普段生活している中で、球体関節人形のお話を聞ける機会などほとんどないだろう。しかしアープラには昔から球体関節人形のお話をする方がぼちぼちいらっしゃって、すげーコミュニティだなと思う
四谷シモン天野可淡土井典(土井典の、肥満体の球体関節人形というのは、興味深い)
金森修 『ゴーレムの生命論
二階堂奥歯『八本脚の蝶

アルトーの『神の裁きと訣別するため』も電子書籍で購入。引き込まれる文章で、一気に読み終えた
『神の裁きと訣別するため』は、アルトーが晩年にやったラジオドラマのシナリオである。過激な内容で1973年までお蔵入りになった
>人間は病んでいる、人間は誤って作られているからだ。
> 決心して、彼を裸にし、彼を死ぬほどかゆがらせるあの極微動物を掻きむしってやらねばならぬ、
> 神、
> そして神とともに
> その器官ども。
>
> 私を監禁したいならするがいい、
> しかし器官ほどに無用なものはないのだ。
> 人間に器官なき身体を作ってやるなら、
> 人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。
> そのとき人間は再び裏返しになって踊ることを覚えるだろう。
> まるで舞踏会の熱狂のようなもので
> この裏とは人間の真の表となるだろう。
ドゥルーズ器官なき身体のヒントになったらしい

河出文庫版『神の裁きと訣別するため』には、アルトーの書いたゴッホのための論文『ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者』が収録されている。こちらの文章も『神の裁きと訣別するため』のテイストに近い。アルトーは精神病棟に9年間ぶち込まれていた。彼は「ヴァン・ゴッホは狂っていない」と明晰に断言する
勢いでアルトー『タラウマラ』 も購入

メルカリで注文していたPioneer/CDJ-350が届いたので、動作を確認、問題なし
今更CDでDJ?という感じかもしれないが、USBメモリでmp3やwavも使用できるので、便利だ

昼頃にDiscordで風神さんがドローイングVCをしていたので、僕も描く

親ガチャ」の議論を拝聴

ちょっと寝た後、アープラを覗く
あえとすさんのこの投稿を読んで、木田元さんの『反哲学入門』を思い出したので、読み直す
> 日本では、哲学が欧米に輪をかけて難解なものとされていることは確かです。 まず、哲学の基本となる超自然的原理のようなものが、われわれの思考のうちには見いだされない、ということからくる分からなさがあります。 もう一つ、哲学に似たジャンルとして、言行一致を目指す儒教の道徳的実践や禅のような宗教的修行の伝統がありましたし、詩的直観を重んじる文学の伝統もあったので、西欧伝来の哲学を、儒教や禅や詩と重ね合わせて受け容れようとする傾向がありました。そのため、もともと哲学の発想の根本的な分かりにくさを、道徳的実践や、宗教的悟道、詩的直観のむずかしさと一緒にしてしまったので、哲学はむずかしい、分からないのが当たり前と思いこんでしまったのです。
超自然的原理を持ち込む西洋哲学の思想は、我々日本人にはなかなかな馴染みにくいのだろうか。しかし木田さんは、そのあとに
>西洋の哲学にもいろいろな傾向があり、道徳や宗教と重なる領域もありますが、原則としてはもっと理づめのもので、ちゃんと読んでゆけば理解できないものではありません。もちろん、正しく理解するためには、テキストをなるべく原語できちんと読むことと、自分に分かることと分からないこととを区別して、けっして分かったふりをしないことが大切ですが、訓練さえすれば、特別な宗教的な悟りや詩的直観をもっていなくとも、哲学書はかなりの程度まで理解できるものです。
やはり訓練が必要なのだろう

『反哲学入門』には、丸山眞男の神話体系は「つくる」「うむ」 「なる」で整序できるみたいな話が載っている。あの辺印象にあるので、もう一度読み直した
長いので下に移動↓

刺激的な内容で、長くなったのでこちらに移動↓

書いていて思うのは、日記ってなんだろう
すごい長い
長いので短くした