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「ポジティブ教」と「臭いものに蓋をする」

ポジティブ教」とはstakiran研究所/sta/ポジティブ教で説明されているstaさんの造語。

やっぱりstaさんのプロジェクトは面白いな〜と思いつつ、これについては更なる分析が必要であるように思われる……ので、分析しようとしてみよう

ポジティブ教」ののさばる場の帰結は次のようなものになるという:
批判ができない
問題提起ができない

この点にかんして、思想・哲学・文学・芸術の会にはひとつの歴史がある。愚痴チャンネルにたいする拒絶だ。何回か愚痴チャンネルの創設を求める声はあったのだが、それらはモデレータによって却下されてきた。
いっぽうで、あーぷら活性化させたい#616d5e40cc1fc10000421a05において、活性化のためのアイデアとして「肥溜めみたいな場所を作る」というアイデアも出ている。
また、思想・哲学・文学・芸術の会では、すこし前に、心理的安全性を再考すべきだと思われるような状況があった(という観点があった)が、

久住哲は、「アープラノートでは共同編集者を批判しにくい」と思っている。
久住哲的ないくつかの思い当たる理由がある:
共同編集者を失いたくないという恐れ(切実)
「批判」というアプローチ抜きの活動でも十分な創造性を発揮しうるのでは?という仮説を試したい気持ち

また、アープラの歴史に絡めて話すと、4号室のトラウマのようなものも想起される。
uvoa 面白い話をしてらっしゃってますね。

ところで、例えばここで「4号室」という言葉を出すだけでも、良からぬことをしているような気がする。
/hitorigakusai/臭いものに蓋をするの3番目にあたるもの、蒸し返しにたいしての拒絶のようなものが起こるのではないかという恐れがある。
これは、自分たちの歴史に対してどうアプローチするかという問題でもありそう久住哲

人はネガティブな出来事を経験しつつ生きているが、このネガティブな歴史から学べることは大いにある。
時には、良くも悪くもそういったものに耐性を得てゆく……といったことも起こるだろう。
現在(2021/11/10)、Discord本部の性多様性チャンネルでは「ゾーニング」の話が活発になされており、そのなかでばるさんが次のようなことを言っている:
>一時的な逃げ場としてゾーニングは必要だと考える一方、見たくないものを見えないようにするというのは根本的に解決につながるのかというのはあります。
>例えば、ゾーニングが進んで、公共の場所で棲み分けが進みます......プライベートで何か自分の"見てこなかった部分"に突き当たったときにそこにきちんと向き合えるのだろうか。

私はポジティブゾーニング(造語)ということを考えています。uvoa

ほう、面白そうな概念!

以上の議論について/sta/ポジティブ教にて再度staさんもコメントしてくれている。