「ポジティブ教」と「臭いものに蓋をする」
やっぱりstaさんのプロジェクトは面白いな〜と思いつつ、これについては更なる分析が必要であるように思われる……ので、分析しようとしてみよう
「
ポジティブ教」ののさばる場の帰結は次のようなものになるという:
批判ができない
問題提起ができない
この点にかんして、思想・哲学・文学・芸術の会にはひとつの歴史がある。愚痴チャンネルにたいする拒絶だ。何回か愚痴チャンネルの創設を求める声はあったのだが、それらはモデレータによって却下されてきた。
また、思想・哲学・文学・芸術の会では、すこし前に、
心理的安全性を再考すべきだと思われるような状況があった(という観点があった)が、
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は、「アープラノートでは共同編集者を批判しにくい」と思っている。
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的ないくつかの思い当たる理由がある:
共同編集者を失いたくないという恐れ(切実)
「批判」というアプローチ抜きの活動でも十分な創造性を発揮しうるのでは?という仮説を試したい気持ち
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面白い話をしてらっしゃってますね。
ところで、例えばここで「4号室」という言葉を出すだけでも、良からぬことをしているような気がする。
これは、自分たちの歴史に対してどうアプローチするかという問題でもありそう
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人はネガティブな出来事を経験しつつ生きているが、このネガティブな歴史から学べることは大いにある。
時には、良くも悪くもそういったものに耐性を得てゆく……といったことも起こるだろう。
現在(2021/11/10)、Discord本部の性多様性チャンネルでは「ゾーニング」の話が活発になされており、そのなかで
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さんが次のようなことを言っている:
>一時的な逃げ場としてゾーニングは必要だと考える一方、見たくないものを見えないようにするというのは根本的に解決につながるのかというのはあります。
>例えば、ゾーニングが進んで、公共の場所で棲み分けが進みます......プライベートで何か自分の"見てこなかった部分"に突き当たったときにそこにきちんと向き合えるのだろうか。
ほう、面白そうな概念!