罫線を引くことの必要性
罫線を引かないのは、わざわざ明確に分類する必要性を感じないから
そもそもの話、井戸端には罫線を引く文化こそ無かったけれど、文脈が変わるなら
空行を空けたり箇条書きの
段落を変えたりする文化は以前から存在した
それで十分間に合っているので、今更やり方を変えようとは思わない
最初の頃、乱立された箇条書きを
見出しを使って分類した方がいいのかもと思っていた時期もある
あと分類すること自体めんどくさかった
重視する人
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切り出した方が検索がしやすいので、自分もそうするようにしている
罫線を使うのはやめた
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罫線が入ると「切れ」を強く意識するから
1ページにおいて空行が挿入されるのはたしかに区分けではあるがなにか違う
空行には微妙な「切れてなさ」が残る
…ようなそうでないような
引力か斥力かそれともなにか別の言葉が当てはまるかもしれない
罫線があると
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は「切れ」を意識しだすので、「ページが育ってくる」前に繋がりが見えなくなってしまう感じ
ところで俳諧・俳句という文芸においては「切れ」が重要らしい
> 最初の句である発句に下の句を次々に付けていく遊びが連歌です。
> このため、発句には、どのような下の句でも考えられるような独立性が求められ、強く言い切ることが必要とされました。
この「言い切り」感をもたらすのが切字の効能
例が出せるほど俳句のことを知らないのが残念
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さん求む
切字を媒介として別の世界をくっつけているというような(要出典)
草
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罫線と切字の関連はあるのかしら
わけのわからない2hoplinkが連想の間に存在している
3hoplinkくらい離れているかもしれない
日記ページやここでも使われている(
アイコン前置き記法)ではひとつ前の人のスペースと自分のスペースで自然に分けられていて自然な視線誘導もできるし緩やかにつながっている感じもしていいと思っている
この雰囲気が好き
数年前のページに書き込むときにオリジナルを壊すのに抵抗があって罫線を引いて分けるときなど
オリジナルを壊したくないなら、別のページにコピーしておけばいい
議論が長くなったときとか
意味的に離れているものを分けたいという発想による罫線
他に罫線を積極的に使っている例