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ティム・インゴルドとレヴィ=ストロースを接続する
from 2023/04

hysysk サンが野生の思考を読んでいる

> 群論の興味からレヴィ=ストロース(『親族の基本構造ブルバキのヴェイユが協力)へ
ニコラ・ブルバキ
アンドレ・ヴェイユ
> 自分の修士制作は担当教官にブリコラージュであると言われた

中沢新一『100分で名著 レヴィ=ストロース 野生の思考』
NHK

>この新しい人類学 Anthropologie への寄与が同時に、人間学 Anthropologie の革命である点に本書の独創的意味があり、また著者の神話論序説をなすものである


人類学といえばティム・インゴルドだよなー、ということで『生きていること』を漁った
レヴィ=ストロースについて書かれているのは、
エピローグ 19 「人類学エスノグラフィーではない」
ラドクリフ=ブラウンについて書かれているところでレヴィ=ストロースが出てくる

> 民族誌(みんぞくし、英語: ethnography)は、フィールドワークに基づいて人間社会の現象の質的説明を表現する記述の一種。民族誌学(みんぞくしがく)とも。英語の ethnography は、ギリシア語のethnos=国民・民族と、graphein=記述に由来する。
> 文化人類学および社会人類学は民族誌の周辺で発展してきた。例えばブロニスワフ・マリノフスキの『西太平洋の遠洋航海者』、エドワード・エヴァンズ=プリチャードの『ヌアー族』、マーガレット・ミードの『サモアの思春期』、グレゴリー・ベイトソンの『ナヴェン』といった文化人類学の規範的なテキストは、大部分が民族誌である。文化・社会人類学者は今日でも、実際に民族誌的調査を行うことに非常に高い価値をおいている。
> 文化人類学の中には、民族誌の下位ジャンルがいくつかある。1950年代末から1960年代初頭にかけて、人類学者は民族誌的調査の性質を自覚的に晒した「告白的な」民族誌を記し始めた。有名な例にはクロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』、ケネス・リードの『The High Valley』、デイビッド・メイバリー=ルイスの『The Savage and the Innocent』、ややフィクション化されたエレノア・スミス・ブラウンローラ・ボーエン)の『Return to Laughter』などがある。

> 文化人類学で有名なのはクロード・レヴィ=ストロースであるが、彼の構造主義的研究は、ラドクリフ=ブラウンなどを批判的に継承していて、「 親族の基本構造 」や「 構造人類学 」などは彼無しには語れないものなのは明白である。

レヴィ=ストロースはラドクリフ=ブラウンを批判的に継承している
人類学は生物学の影響を受けていて「種」とか「個」の概念が関わっている、らしい
光は光子なのか、波なのか、みたいな感じ
ティム・インゴルドの考え方は、連続性に負っている。ラドクリフ=ブラウンのアプローチの延長線上にいる。レヴィ=ストロースの方向ではない
ラドクリフ=ブラウンを全面的に支持しているわけではないけど、これを援用、発展させている
> だが私は、この社会を生命のプロセスとして捉えるこの考え方に、この考え方に対するあらゆる批判よりも多くのインスピレーションを見出している。デュルケームの社会学の重荷から切り離されたこの考え方をラドクリフ=ブラウンから受け継ぐことで、真の意味で開放的かつ比較的な人類学の可能性をめぐる、現代にふさわしい概念をつくることができると私は確信している。端的に言えば、それはいつどこで営まれているものであろうと、社会的生の条件と可能性の探究である。このことをより正確に述べるために、「社会的 social 」と「生life」とで私が何を意味しているのかを説明しよう。

関係ありそうな人々
ラドクリフ=ブラウンデュルケームの社会学に負っているそうだ

人類学とは何か、購入した
第4章 社会的なるものを再考する
> レヴィ=ストロースは、社会科学者の間で天文学者にたとえられることがあるが、それは理由がないわけではない。彼は、社会を、夜空にまたたく星のように、遠くから見る対象であるかのように見つめていたのだ。しかし、この星のような社会が並ぶ時空の無限の広がりの中で、人々にいったい何が起こったのか? 人々は、消えていなくなってしまったかのようだ。そもそも人間の存在が認められるとすれば、それは付属品としてである。人間が構造を通して機能しているのではなく、構造が人間を通して機能しているのである。
生きていることも、人類学とは何かもそうなんだけど、ティム・インゴルドが直接、レヴィ=ストロースに言及することはなくて、ラドクリフ=ブラウンエドマンド・リーチをふまえて呼び出される

全体を知るにはそういう資料、本に当たるほうがよさそう