generated at
「S」 と 「M」 の人間学

著者 : 矢幡洋
読了 : 2020-10-06

感想
サディズム」 と 「マゾヒズム」 の言葉の由来から、過去の学術的な位置づけの変遷、そして、現代日本での S と M の捉えられ方まで、わかりやすく説明されているのは良かった
途中の 「S ってこんな人」 「M ってこんな人」 の事例紹介的なところがちょっと退屈だったり、筆者の仮説が多そう (研究結果への参照はあんまりない) みたいなところが気になる点としてはある
あとは論理の飛躍が感じられる箇所も結構あって、ちゃんとした研究という感じではない
まあ 「読み物の一種」 ぐらいに捉えれば良さそう

読書メモ
はじめに : 今どきの 「S」 と 「M」
現代日本では、「自分は M」 とか 「彼は S っぽい」 というような会話が普通になされている
筆者のようなパーソナリティ類型としてのサディズムマゾヒズムを研究してきた人間にとっては驚き
純然たる性格の話をしているということがやっとわかってもらえた
「S」 や 「M」 の前に、「ド M」 や 「ド S」 という言葉が受け入れられたと考えられる
本書は Millon の説によるところが大きい
日本における S の捉え方は、的を得ている
一方で、現代日本社会の M に対する認識は、欧米のパーソナリティ類型としての M とは異なっている
重要な特性である自虐性よりも、依存性というべきもの
S と M という概念は、学問的に、「性的な意味でのサディスト・マゾヒスト」 と 「パーソナリティ概念としてのサディスト・マゾヒスト」 の間で激しく揺れ動いてきた
これらの歴史を見た後、現代日本での S と M への視線の転換を見ていく

1 章 : 「S」 と 「M」 の一〇〇年史
サディズムマゾヒズムは、精神医学が生み出した言葉
もともとは、人間の異常性欲の現象を表現するための言葉だった
性的精神病理』 の第 6 版
1905 年、ジクムント・フロイト (Sigmund Freud) が 『性の理論の三つのエッセイ』 にて、サディズムマゾヒズム性衝動の攻撃的な要素の 2 つの極と位置づけた
異常性欲というマイナーな分野から、人間性を考えられるような本質的な概念に拡大
初期のフロイトは、サディズムリビドー発達のひとつの失敗と位置付けながら、マゾヒズムについては性的行動よりも広く罪悪感や罰といった広い文脈からとらえていた
後期のフロイトは性的マゾヒズムとは無縁の道徳的マゾヒズムという概念も提唱
後期のフロイトは、サディズムについても、性的な一現象ではなくより広い見地から位置づけしなおした
人間の本能を 「自我性本能」 とする見方から、「生の本能 (エロス) 対 死の本能 (タナトス)」 という見方に
性本能エロスの一要因で、攻撃性は死の本能の一現象
人間の中にある破壊的な本能が外に現れるときにとる形が攻撃性で、それが他者に向けられた現象がサディズム
死の本能の根拠のひとつにマゾヒズム : 人間の自己破壊的な本能が表面に直接現れた心理現象
フロイトはマゾヒズムの方に比重を置いた
フロイトの無意識理論の重要な要素に超自我があり、その根拠に罪悪感がある
フロイト以降の精神分析の流れではサディズム重視へ (自己破壊よりも攻撃性の方がキーワードに)
フロイトの死の本能仮説を受け入れ、赤ちゃんは生まれた時から攻撃性を持ち、それを自分の中にあると認識せず敵が自分を攻撃してくると幻想する、と考えた
空想が活発な早期発達段階を妄想分裂ポジションと呼ぶ
空腹になるのは、自分にを与えない悪い乳房が自分に攻撃を加えている、と考える → 自身も噛むなどで反撃
良い乳房とは自身が一体だと空想 → やがて不安も減少し、幻想に頼らない現実把握が可能に
ここから、悪い乳房と良い乳房という 2 つではなく母親の 2 つの側面だと理解 → 母親に攻撃を加えていたという自責の念、罪悪感
この発達段階を抑うつポジションとよぶ
もともと攻撃性が備わっており、あとから自虐性が生じる、とした
第二次世界大戦後、世界の精神医学生物学的精神医学が中心だったが、アメリカでは精神分析が主役になった
その中で活躍したオットー・カーンバーグ (Otto Kernberg) は、マゾヒズムを、超自我が未成熟でサディスティックな傾向を残している結果生じるものと考えた
自分を厳しく断罪して自己処罰をしがちなマゾヒズムとなる
薬物療法への期待が高まることで、薬物の効果研究が必須に
対象者に薬物が有効かどうか調べるために対象者の基準明確化が必須 → 診断分類体系の整備
脳科学派が、実証的な方向に向かうべきと主張
まずは DSM という手引書の改訂
この中で、サディズムマゾヒズムも縮小
性障害という一部門に入れられ、性的サディズム性的マゾヒズムという限定的な名称に
DSM 第 3 版が大きく売れたことで、精神分析派はますます凋落し、脳科学派が主流に
世界的には心理学でも精神分析ベースのものは減っているが、日本だけは精神分析が流行っている
その後、DSM のパーソナリティ障害マゾヒスティック・パーソナリティ障害を加えるべきという議論
議論の末、第 3 版の改訂版には 「自己敗北型パーソナリティ障害」 という名前で登場したが、第 4 版では削除された
ただ、第 4 版の付録に入った 「抑うつ性パーソナリティ障害」 がマゾヒスティック・パーソナリティ障害を包含していそう

2 章 : 「S」 ってこんな人
ミロンの著書 『パーソナリティ障害』 をもとに、精神医学的なパーソナリティとしての S について
S の理想的形態はリーダーシップを持つ人
他の人からの批判や反対ですぐに意見を変えてしまうような人には誰もついていかない

3 章
精神医学におけるマゾヒスティックは、現代日本の M の理解とは大きく異なる
ポジティブ M は責任感が強い人
元来自分の幸福を追求することに後ろめたさを感じている → 自分以外の人のために頑張る
ミロンがマゾヒスティック・パーソナリティの外見について真っ先に挙げているのは必要以上にみすぼらしいこと
ド M がする話の内容は、究極的にはただ 1 つ、愚痴
必然性がないときにまで憂鬱そうな顔をする ← 自身の不幸ぶりを宣伝したがっている
所有的なマゾヒスティック・パーソナリティは独占欲が強い
相手にとって自分が一番でなければならない

4 章 : なぜ、人は 「S」 や 「M」 になるのか?
S や M の性格傾向がどのように形成されるのかは、まだ十分には研究されていない
この章では、ミロンが仮説的に述べる 「両者のパーソナリティー障害を形成する後天的体験」 が説明される
あくまでミロンの仮説
回避性パーソナリティー障害サディスティック・パーソナリティー障害との間には、「親から拒絶的に接せられる」 「疑い深い」 「世界を敵意に満ちたものと捉える」 という共通点があるとミロンは考えている
異なる点として、前者は人間関係から引きこもるが、後者は世界の敵意に対して敵意で対抗し、上昇しようとする
ミロンが考える性格形成の段階沿って、ド S の性格特性がどのように形作られるか
発達史の第 1 段階 : 感覚―愛着段階
生後 18 ヵ月までの間に周りから受ける刺激が不足したり強すぎたりしない適正な範囲にあることが、正常な感覚と愛情関係の基盤を形成する
ここで、親からの敵意を感じて、「世界とは敵意を持った危険なものだ」 という認識をはぐくむ
次の段階 : 感覚―動機―自立段階
6 歳ごろまでに、身体や言語の発達によって自立的な行動が可能になる時期
適切な自己コントロールを行って、他者との適切な距離を取れるようにすることが課題
この段階で 「他人の好意などあてにできない」 と考えるようになり、過度な独立性を形成する
次 : 思春期の性的アイデンティティ確立の段階
他人と親密な関係を結ぶには温かさや感受性が必要だが、S な人間にとってはそういうのは弱みを見せることになる
最後 : 皮質的統合段階
4 歳ごろから思春期を通じた長い期間にまたがる
知能の発達によって抽象的思考が可能になり、状況を超えた一貫性を維持できるようになり、高度な自己が形成される
S な人間も親密な人間関係を持ちたいと願うことがあり、本当の親密さや愛を体験できれば敵意や憤激はやわらぐはず
が、多くの場合は人間関係が密になっていくことで、むしろ嫌悪の念や警戒心が増幅してしまう
マゾヒスティック・パーソナリティーの形成
ミロンは、遺伝的な要因をほとんど考えていない
発達の初期段階における 「愛着」 と 「苦痛をもたらす体験」 との結合を重視
親に対する愛着形成を行う時期
このとき、親が苦痛を与えてくる対象であっても、子どもは親から離れることができず、愛着を形成するしかない
苦痛をもたらす体験と愛着が結合してしまう
このような発達の初期段階で転倒が起こりえることは、動物実験でも確認されている
さらに、「ネガティブな状態でいた方が報酬が与えられる」 (風邪を引いたときに親がやさしくしてくれる、など) ということを子どもが学習するとマゾヒスティックな傾向が加速する
あえて不幸な結婚を選ぶ
性同一性 (自分の生物的性差に基づく自己認識を確立する) を学習する初期段階では、男女の関係を批判的に吟味する能力を持たない
「親の夫婦関係」 を 「男女の普遍的な関係」 と受け取りがち
ここから、性役割の学習に混乱を生じる可能性
家族に関係しようとしない父親を持つ女性は、同様に冷ややかな男性と一緒にいるときの方が落ち着くことがある
母親が父親の悪口を過剰に吹き込んで、その結果 「不幸な結婚こそ自分の運命」 と思うようになるなど
同様な家庭で育てられた男の子の場合 : たいていは母親が息子を強く頼るようになる
干渉的で、支配的、誘惑的な母親
息子の方も過剰に母親を理想化して従順になる
社会に出ても、必要以上に自己卑下し、責任を取らないで良い立場を求める

5 章 : 世の中、「S」 と 「M」 ばかりなのか?
S / M の二分法だけですべての性格タイプを表すことはできない
S / M は他人との関わり方
少なくとももう一種類 「他人と関わらないようにする」 が必要
この 「三分法」 を言い切ったのは精神医学者の Karen Horney (カレン・ホーナイ)
「他人と張り合おうとする」 「他人に近づこうとする」 「他人から距離をおこうとする」 の 3 種類
最後のものはシゾイド・パーソナリティと呼ばれる
Horney は、「たいていの人は 3 種類が混ざっており、そのうちの一つが優勢」 と言っている
「他人に近づこうとする」 とされる人を、Horney は 「追従的人格」 と呼ぶ
彼らの言動は、人間的な親密さへの欲求、「何かに屈していたい」 という欲求を中心とする
安全感を求める貪欲な衝動
自分がない人たち
他者からの評価によって自己評価する
ミロンは、Horney のいう追従的人格を 「依存性パーソナリティの先駆である」 と見なしている
現代日本で 「M っぽい」 と自認する人は、こういう追従的人格
M 的な人は、マゾヒスティック・パーソナリティの中核的なタイプというよりも依存性パーソナリティに近い
「他人と張り合おうとする」 人たちは、攻撃性の強い性格
他人を制限することを最優先し、支配や恩を売ることも含めた数多くの手段を使う
こういう人たちは S そのもの (サディスティック・パーソナリティ) であり、現代日本でいう S っぽい人もこういう人
無口・無表情
「何を考えているのかわからない」 という印象を与えて敬遠されることもある
とにかく対人関係を避けようとする
彼らのひそかな優越感は 「自分はユニークな存在だ」 という自意識
長期にわたり孤独に耐えなければならない仕事にはめっぽう強い
何か月もパソコンのプログラミングに集中する、みたいなやつ
生身の人間が嫌いであるため、小説やアニメよりも、天文学・昆虫観察・プログラミング・一人将棋などを好む
一種の精神的自給自足を実現するため、様々な工夫を凝らす能力がある → 昔から自然科学の分野で業績を上げる人はこのタイプが多いと言われている
独創性との関連についても多くの指摘がなされてきた
ミロンの性格分類
細かくは 14 種類だが、大きくは 4 種類 : 自己に比重を置くか、他人の意向に比重を置くか
独立 : 自己を志向するグループ
依存 : 他者を志向するグループ
遠距離 : 他者から距離を置こうとするグループ
葛藤 : 自己志向か他者志向かで葛藤しているグループ
次に、目指す対人関係を実現するための戦略の特徴で 2 通り : 能動的、受動的 (上記 4 種類との掛け合わせで 8 種類)
他者を志向するグループのうち、能動的な方を 「演技性パーソナリティ」、受動的な方を 「依存性パーソナリティ」 という
後者は目立とうとせず、同調する
前者は、「他人の好意を得たい」 という願望は後者と同じだが、目立つことによって他人に振り向いてもらおうとする
キーワードはアテンション・シーキング (注目されようとすること)
8 分類には収まらない重症パーソナリティ障害としてスキゾタイパル人格障害境界性パーソナリティ障害妄想性パーソナリティ障害を追加
ちなみに、葛藤グループの能動的なグループを受動攻撃性パーソナリティ、受動的なグループを強迫性パーソナリティという
強迫性パーソナリティ : 整理整頓や時間厳守、既存の秩序を完全に守ろうとするような人
幼少期から親が狭い基準に沿うことを要求し、ミスを叱るという家庭教育をしてきたからではないかと考えられる
サルズマンという研究者の説 : 確実性を少しでも高めることを最重要視する人たち
結果至上主義者でもある

6 章 : 一人の中に 「S」 と 「M」 は両存するか?
受動攻撃性パーソナリティ : 一見 S に見えるが実は M
「こうしたい」 と自分自身で明確な方向性を打ち出す強さがない
誰かに完全に依存したくはないと思っているが、自分で主張することもできず、消極的に抵抗する、という程度
背後にあるのは根本的な自信のなさ
サドマゾヒスト : 受動攻撃性パーソナリティとは逆
精神分析家のカーンバーグにより命名
不幸を武器に他人を攻撃する S
極端な自虐の中にしたたかな攻撃を仕込んでくる
「生きていてごめんなさい」 という言い方 : 他人の軽蔑を無力化して、部分的な勝利を収める狙い
いつまでも愚痴を言い立てるのは、「いつまでも相手を罰していたい」 という執念深い懲罰的態度でもある場合が多い
S と M は反対のものなのか?
フロイト的な考えでは、人間の中の攻撃性が外に向けられたものが S で、内に向けられたものが M
筆者の考えでは、S は攻撃性の強さや競争心の強さが高くなったもので、M は生まれた後に見つけた生き方の方法
S は攻撃性の過剰化など、単純なもの
M は、不幸というカードを使って部分的勝利を収めようとするプレイヤーであり、S よりも分化した精神性
罪悪感というものを理解し、相手は自分が与えた影響に対して反省できるはず、という認識のもとで行動
全ての M がそうなんだろうか? nobuoka

7 章 : 「ド S」 や 「ド M」 とうまく付き合う方法
どれほど強力なド S やド M でも、対等な知人関係であれば距離を取ればいいだけ
上司や配偶者、家族などだと困る
ド S 上司への対応
仕事に没頭することで、できる限り関わらないようにする
攻撃されても、無反応 (無表情でいるなど) でいる : 反応するといじめがいがあると思われるので
叱責されても 「自分が無能なのではなく、相手は自分を無能扱いして優越感を得たいだけなのだ」 という風に解釈して、ストレスを軽くする
心の中で壁を作るイメージをするなど
ド S 家族
競争心が強い人ほど、それについてほめられると喜ぶ、ということがあるので、喜ばせるツボを見つける
M になる : 一定の自尊心を保つための方法
「自分は何も悪いことをしていないのに横暴な仕打ちを受けているかわいそうな人」 という立場をとることで、道徳的には自分が上である、という自尊心を得る
これは対応になってるのか……? nobuoka
奴隷になる : 依存型反応。 自尊心を守るということを一切放棄する
自尊心を守ろうとする努力を放棄するので、これで楽になる人も多い
いいのかそれでw nobuoka
M の愚痴に付き合わされてうんざりしている場合 : カモにされている
なぜカモにされるのか? → あなたの顔に 「誰かの助けになってあげたい」 と書かれているから
病的な M の人は、親身になってくれる可能性のある人を見抜くことにかけては鋭い嗅覚を持っている
誰かを非難する言葉には絶対に乗ってはいけない。 同調を引き出そうとするニュアンスに気づいたら、話をそらすか無視する
ひたすら 「どうすればその不幸な事態を解決できるのか」 にコミュニケーションの焦点を絞る
ただし、こちらから解決策を提案してはならない (否定されるだけなので)
むずくない?ww nobuoka
不幸話を回避するための台詞集
「どこが突破口になりそう?」
「どこから手を付ければいいんだろう?」
「攻略ポイントはどこに見つかりそうですか?」
「事態を変えられそうな鍵となる人は見つかりそうですか?」
「今まで試してみたことでほんの少しでも効果のあったことは何ですか?」
「仕えそうな手立ては何かないですか?」
解決志向セラピーという心理療法の発想からきている
解決策が出てこなくても (たいていの場合は出てこない)、不幸話に巻き込まれないようになる、という目的は達成できる

おわりに : なぜ、現代日本で 「S と M」 が流行るのか
繰り返しになるが、現代日本におけるいわゆる M と真正 M は違う
いわゆる M 的な人は、むしろ依存性 (依存的) とみなすべき
大きなくくりでいうとホーナイの 「他人に近づこうとする人」 という同じカテゴリだが、細かく見れば依存性と自虐性は別
真正 M は悲観的、依存性は楽観的 (誰かに依存して、その人を信じてその人の言うとおりにすれば自分は大丈夫、という意識)
真正 M は対人戦略のツールとして愚痴を使うが、いわゆる M っぽい人はそうではない
真正 M は元来頑張り屋
今の日本には 「私は M」 という人は多いが、実際には自虐性からの逃走だと考える
巨人の星』 での、主人公の体験している苦痛感覚を執拗に描くような描画は見られなくなった
せいぜいハードなトレーニングでレベルアップした、というぐらい
「私は M」 と言いたがる人が増えたのは?
社会全体に演技的傾向が浸透してきたからではないか
元来、依存性パーソナリティの人は他人よりも目だちたくない
それでも社会の総エンターテイメント化の中で、お手軽な自虐ネタの流行が生まれた
この依存性パーソナリティによる演技性テクの延長線上に 「私は M」 の氾濫があるのでは?
「私は S」 だと堂々と言えるようになったのはなぜか?
すなわち、攻撃性が許容されるようになったのはなぜか? = 攻撃性の解禁とも言うべき事態
小泉政権の 「自民党をぶっ壊す」 などの攻撃的な表現、他人の欠点を徹底的に嘲笑することで笑いを取るテレビ番組、インターネットにおける攻撃的な書き込みというような環境で、他者を攻撃する言動に対する許容度も高まってきたのではないか?
「私は S」 という発言を攻撃性と捉えない人も多いのではないか、という気はする nobuoka