遺伝子
遺伝子概念の発展
チェコのブルノの町で修道院の司祭をしていた
メンデルは1865年に
エンドウの交雑実験の結果をまとめて『植物雑種の研究』という論文を発表した。この論文はのちに「
メンデルの法則」とよばれるようになった遺伝の原理を示したものであるが、このなかでメンデルは、親から子孫に
生殖細胞を通して伝えられ、
遺伝形質を決定するものの存在を推定し、これを「
要素」とよんだ。メンデルが初めて明らかにした遺伝の要素は、1909年にデンマークの遺伝学者の
ヨハンセンによってドイツ語で
ゲンGenと名づけられ、日本語では「
遺伝子」とよばれるようになった。その後、主として
ショウジョウバエを用いた研究から
遺伝子と
染色体の関係が明らかにされ、アメリカの遺伝学者
T・H・モーガンが1926年にその著書『遺伝子説』で主張したように、遺伝子は染色体上に線状に配列する粒子であると考えられるようになった。1940年代には、
遺伝生化学や
分子遺伝学研究が発展し、遺伝子は染色体をつくる
核酸の一種であり、酵素分子の働きを支配して
遺伝形質を決定することが明らかにされた。1960年代には、
遺伝子のもつ遺伝暗号がすべて解読され、遺伝情報の発現機構が解明された。さらに1970年代には、遺伝子の人工合成が可能になり、また細胞から取り出した遺伝子を異種の細胞に入れて増殖させ利用する
遺伝子工学技術が発展してきた。[石川辰夫]
遺伝子の本体
遺伝子の本体は
核酸の一種
デオキシリボ核酸(
DNA)である。例外的にある種のウイルスでは
リボ核酸(
RNA)が遺伝子として働く。遺伝子がDNAであることは1944年アメリカの
エーブリーO. T. Avery、
マクレオドC. M. MacLeod、
マッカーティーM. McCartyの3人により、
肺炎菌を用いた形質転換実験により初めて証明された。彼らは肺炎菌で多糖類の膜をもち、病原性のある野生型細胞からDNAを抽出し、多糖類の膜をもたず、病原性のない突然変異型細胞に加えると、突然変異型が野生型に変化することをみいだし、膜構造と病原性が野生型か突然変異型かを決定している遺伝子はDNAであると結論した。その後、1952年にはアメリカの
ハーシェイA. D. Hersheyと
チェイスM. Chaseが
バクテリオファージT2の
生活史の研究から、T2の増殖に必要な遺伝情報をもつのはDNAであることを証明し、遺伝子がDNAであることが確認された。[石川辰夫]
遺伝子DNAの構造と複製
DNAは多数の
デオキシリボヌクレオチドが結合してできた高分子物質である。デオキシリボヌクレオチドは
リン酸、
デオキシリボース(糖の一種)、
プリンまたは
ピリミジン塩基が結合したものである。DNAをつくる塩基は、
アデニン(A)、
グアニン(G)、
シトシン(C)、
チミン(T)の4種である。1953年にアメリカの生物学者
ワトソンとイギリスの物理学者
クリックは協力して遺伝子DNAの分子構造を示す「
DNAの二重鎖モデル」を提出した。このモデルは、DNA分子はデオキシリボヌクレオチドが結合してできた2本の長い鎖が螺旋(らせん)状に巻いた構造からなるというものである(図A)。2本の鎖はAとT、GとCが塩基対をつくるように結び付き、二重螺旋構造をとっている。二重螺旋の直径は2.0ナノメートル、螺旋の1回転の距離は3.4ナノメートルで、その間に
塩基対が10個並んでいる。このようなDNA鎖をつくる塩基の配列順序は遺伝暗号として働き、遺伝情報を決定するものである。DNA分子の二重鎖の長さは種によって異なるが、遺伝学研究によく用いられる大腸菌のDNA分子の長さは約1.1ミリメートルで、数百万の塩基対からなり、その分子量は約25億である。大腸菌は約3000の遺伝子をもつと考えられ、一つの遺伝子は1000余りの塩基対からなり、平均して分子量が数百万と推定される。
遺伝子は細胞分裂のとき正しく同じものに複製され、子孫細胞に伝えられる。DNA分子の複製のときには、二重螺旋構造は部分的に巻き戻されて1本鎖となり、それぞれの鎖を鋳型として、DNA合成酵素の働きにより対になる新しい鎖が合成される。このようにDNA分子の複製は自己複製であり、また二重鎖の1本から新しい分子がつくられるので
半保存的複製とよばれる。[石川辰夫]
遺伝子と染色体
高等動植物など
真核生物の細胞では、DNAは核に含まれ、細胞分裂のときには染色体となり、子孫細胞に分配される。
核や
染色体をつくっている物質は
クロマチンとよばれる。クロマチンはDNA、
ヒストンを主とする
タンパク質、少量の
RNAを含む。DNA分子はヒストン粒と結合し、
ヌクレオソームnucleosomeとよばれる単位構造をつくり、折り畳まれて、核や染色体を構成する。
細菌類など
原核生物の細胞では、細胞分裂のとき真核細胞でみられるような核や染色体をつくらず、DNA分子はクロマチン構造をとることなく、裸の状態で細胞質中に分布している。
遺伝子は染色体上に一定の順序で線状に配列している。二つの遺伝子が異なる染色体上にあるときには、交雑の結果メンデルの独立の法則に従って分離するが、同じ染色体上にあるときにはこの法則に従わず、行動をともにし、連鎖の現象を示す。1本の染色体上の遺伝子は一つの連鎖群を形成する。交雑の結果、連鎖している遺伝子の組合せが親と異なる組合せに変わることがあり、この現象は
遺伝的組換えとよばれる。組換えは
減数第1分裂の過程で対合した
相同染色体の間で
交叉(こうさ)とつなぎ換えがおこり、新しい遺伝子組合せ、すなわち
組換え型が生ずる現象である。組換え型の出現頻度をパーセント(%)で示した値を
組換え価とよぶ。組換え価を遺伝子間の距離とし、これを線上に目盛ると、遺伝子が染色体上にどのように並んでいるかを示す図ができる。この図は
染色体地図、
遺伝地図、あるいは
連鎖地図とよばれる。
組換えはDNA分子間の交叉切断と、相同な相手分子へのつなぎ換えによっておこると考えられている。組換え過程では、
DNA鎖の
切断酵素、
修復酵素、
連結酵素などが働いている。DNA鎖の特定塩基配列部位を切る酵素は
制限酵素とよばれる。同じ制限酵素で切った2種のDNA鎖は切り口の構造が相補的であり、それらを結合してできた分子は
組換えDNAとよばれる。遺伝子DNAと細胞質で自己増殖する
プラスミドのDNAの間で組換えDNAをつくり、遺伝子のコピーを増やすことができる。これは
遺伝子のクローン化とよばれる現象で、
遺伝子工学の主要な手段となっている。[石川辰夫]
遺伝子の働き
遺伝子のもつ
遺伝暗号は、1961年から約5年間に解読された。解読された遺伝暗号は、遺伝子DNAの三つの
ヌクレオチドが
コドンcodonとよばれる暗号の単位となって一つのアミノ酸を指定するというもので(図B)、
トリプレット暗号ともいわれる。コドンは64種あり、そのうち61種はタンパク質をつくる20種のアミノ酸のどれかを指定する。3種のコドンはどのアミノ酸も指定せず、遺伝暗号の読みの終了暗号として働く。また、
メチオニンの暗号(AUG)は遺伝暗号の読みの開始暗号となる。ウイルスからヒトに至るまで、どの生物も同じ遺伝暗号を用いている。
遺伝子が働くか働かないかは、調節作用をもつ遺伝子や環境条件などにより調節されている。フランスの
ジャコブF. Jacobと
モノーJ. Monodは1961年に
大腸菌の乳糖代謝の調節機構の研究から、酵素合成が調節遺伝子により
オペロンとよばれる遺伝子群を単位として調節されるという「
オペロン説」を提出した。オペロン説によると、大腸菌の培養中に乳糖がないときには、調節遺伝子からつくられる調節物質(
抑制体とよばれるタンパク質)がオペロンの一端(
オペレーターとよばれる)に結合し酵素合成を止めているが、乳糖が加えられると抑制体は不活性化され、オペロンから酵素が合成される。真核細胞は多数の遺伝子をもつが、組織に特有の遺伝子のみが働き、ほかは働きを停止している。このような真核細胞における遺伝子作用調節機構は、染色体構造と密接な関係をもつものと考えられている。[石川辰夫]
突然変異
遺伝子は普通、非常に安定した状態で保たれているが、まれに変化することがある。遺伝子の構造が変化し、遺伝情報が変わる現象は
突然変異とよばれる。特別な処理をしないで自然の状態でおこるのは
自然突然変異である。突然変異が一定時間内にどのくらいの頻度でおこっているかは
突然変異率で示される。自然突然変異率は生物種により、また遺伝子ごとに異なるが、微生物では一般に突然変異率が低く、1億分の1くらいであり、高等動植物では10万分の1、あるいはそれ以上の場合が多い。細胞をX線照射したり、
アルキル化剤のようなDNAに作用する化学物質で処理すると、突然変異率が上昇する。突然変異はDNA塩基対の
置換、
欠失、
転座、
逆位、
挿入などにより、遺伝暗号が変化し、指定するアミノ酸が変わることにより、誘発される。[石川辰夫]
遺伝子の微細構造単位
同じ遺伝子の突然変異体を多数分離して相互に交雑すると、低頻度ではあるが
組換え型が得られる。各突然変異体の間の組換え価を直線上に目盛ると、遺伝子の
微細構造地図が得られる。遺伝子の異なる位置の変化したものはすべて
対立遺伝子とよばれる。微細構造地図上の点はDNA分子の1塩基対に対応する。遺伝子内でおこる突然変異の最小単位は
ミュトンmuton、組換えの最小単位は
リコンreconとよばれるが、これらの単位は一つの塩基対に対応するもので、遺伝子はこのような単位が多数集まってできているといえる。三つの塩基が集合すると、遺伝暗号のコドンとなる。遺伝子はコドンの連結したもので、その遺伝暗号により
ポリペプチド鎖のアミノ酸配列が決定される。同じ遺伝子の二つの突然変異が、同じ細胞内の異なる染色体上にあるときには、普通は突然変異形質を示すが、ときには助けあって
野生型形質を表すことがある。このような突然変異は、
シストロンcistronとよばれる遺伝子内の異なる働きの単位に属すとされる。シストロンはタンパク質をつくる一続きのポリペプチド鎖に対応する遺伝単位である。普通、遺伝子は一つのシストロンからなり、1種のポリペプチド鎖の遺伝情報をもつが、まれに二つのシストロンからなり、2種のポリペプチド鎖の遺伝情報をもつものがある。[石川辰夫]
遺伝子記号と種類
遺伝子の名称は遺伝子記号で表される。遺伝子記号は、その遺伝子の決定する形質の特徴を示す英語やラテン語などの省略形と番号や記号からつくられる。たとえば、微生物でアミノ酸の一種である
トリプトファンの要求性を示す遺伝子の記号はtrpである。トリプトファン合成系にはいくつもの酵素反応があり、それぞれの反応を支配する遺伝子には番号やアルファベットをつけtrp1、trp2あるいはtrpA、trpBのようによぶ。
ショウジョウバエの白眼の遺伝子はWで、はねの曲がったものはCyである。小文字は
劣性、大文字は
優性遺伝子である。