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共感
> ただし、他者の共感的な心を読むことについては、心がつながるという暖かく美しい側面のみに着目するのではなく、その役割を注意深く見ていく必要がある。共感は相手を選ぶ。また、共感しあう人とそうでない人を分けてしまう。互いに好意を抱く親しい関係や身内、自分と同じ集団に属する人などに対しては、その心を感じ取りやすいけれども、異質な、または遠い存在として認識する他者には、共感を抱きにくい。他者の不幸や苦痛に対して、同情的な共感を持たないばかりか、その不幸を喜ぶような「いい気味」といった感覚を向けることもあるだろう。(このような感情は、シャーデンフロイデ (Schadenfreude)と呼ばれる)。また、共感は仲間内の結束を強くするかもしれないが、その分、外に対しては排他的になる可能性を生む。親しい人や内集団に対する共感ゆえに、対立する立場にある第三者や、外集団に対する怒りや敵意が増幅することもあるだろう。なぜ心を読みすぎるのか 唐沢かおりp.278

> しかし、共感することが自分のためにならない、あるいは相手のためにならない場合もあります。 特に、 支配的な振る舞いや不当な扱いを受ける側になったときです。 自分 (あるいは他者) に敬意を払わない相手に対して共感しすぎると、怒りという感覚を失ってしまうことがあります。 怒りは不公正に対する感情的な反応であり、自分自身や他者のために行動を起こす動機となる大切な感情です。ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック メラニー・ジョイ・44ページ

> 決めつけとは羞恥心の対極にあるもので、 という思考を生み出し羞恥心を感じさせるに至る態度です。 私たちは誰かを(あるいは自分自身を)こうだと決めつけるとき、その人を劣っていると認識し見下します。決めつけることによってその人への共感が制限されるため、 その人とのつながりは薄れます。 そして、 他者への共感が少ないほど、他者をこうだと決めつける傾向が強くなります。 相手の視点に立って世界を見れば、その人を見下すことはできないはずなのに。 決めつけは、他者を切り離し他者よりも優れていると感じることで、自分の権力自尊心を高めたいという自己中心的な欲求から生じます。 私たちは誰かをこうだと決めつけるとき、 相手が間違っていて自分は正しい、 相手は劣っていて自分は優れていると感じるようになります。 しかし、一方的な決めつけは結局のところ双方にとって不利益です。 他者を裁くとき、 私たちは勝者のように感じるかもしれませんが、最終的には両者の負けなのです。 決めつけることによって、 人間関係の活力の源であるつながりを、 そして誠実であるという自覚から生まれる真の力と誇りを失います。 そして相手の人もあなたとのつながりを感じられなくなり、恐らく自尊心も失ってしまうことでしょう。ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック メラニー・ジョイ 62ページ

>カンミ 未だにピクミンやってるのだけれど、ピクミンブルームでは1日のおわりに「今日はどんな日でしたか?」と聞いてくれて、「いい」「ふつう」「よくない」が選べて、選んだものによってピクミンたちが一緒に喜んだり憂いだりしてくれるんですよね。おじもそのくらいやってほしいです。カンミ