畜群の性質と民主主義
『善悪の彼岸』。このメモは毒々しくなるが、ニーチェの基本的な考え方が現れている箇所だとも思う。ちなみに間違なく自分は畜群の1人だ。
まず、家畜の群れである
畜群が欲しているものをニーチェは指摘している。
>彼らが全力を尽くして手にいれようとしているすべてのものは、あらゆる家畜の群れが望む緑の牧場の幸福である。すなわちすべての人が安全で、危険がなく、快適に、そして安楽に暮らせることである。彼らが朗々と歌いあげる歌と教説は二つだけ、「権利の平等」と「すべての苦しめる者たちへの同情」である。──そして彼らのうちから苦悩そのものが除去されねばならないと考えているのである。──「四四 新しい哲学者」
ニーチェにとって彼らの精神は「本能的に感じる精神とは正反対のものを欲する精神」であり、「水平化する者たち」である。
彼らは
孤独を知らず、
自由を知らず、表面的な人間なのだ。
ニーチェはこの方向の考えとは逆で、「どこまで力強く高みにまで成長したか」という問いにまなざしと意識を向けており、これとは正反対のものが人間を高みへと至らせるのだ。
>そして、そのために必要なのは、人間の状況が法外なまでに危険なものとなることであり、長きにわたる圧力と強制のために人間の独創力と偽装力が(人間の「精神」のことだ──)、巧みに、大胆なまでに発達し、生の意志が無条件の力への意志にまで高まることだと考えてきたのである。──わたしたちは、厳しさ、暴力的な行為、奴隷、街路での危険や心の中の危険、隠遁、ストア的な考え方、すべての種類の誘惑の技術と悪魔的な行為、人間にみられるすべての悪、恐るべき行い、圧制的なもの、猛獣的なもの、蛇のようなずる賢さなどは、その反対物と同じように、「人間」という種を高めるために役立っていると考えるべきなのである。──同上
では「家畜の群れ」とは何者だろうか。ニーチェは一九世紀以降のヨーロッパ人を挙げている。
>人間を芸術家として構築することのできるだけの高尚さや強靭さをもたない人間、千々に異なる種類の出来損ないや破滅を支配する明瞭な法則を、卓越した自己超克の力で働かせるままにしておくだけの強さも先見の明もない人間、人間たちを深淵のように隔てるさまざまな位階と等級の違いを見据えるほどの高尚さもない人間、──このような人間が、彼らの「神の前での平等」を唱えながら、これまでヨーロッパの運命を支配してきたのである。そしてついに矮小で、ほとんど笑うべき種族が、家畜の群れのように善良で、病弱で、凡庸な種族ができあがったのである。それが現代のヨーロッパ人なのだ……。──「六二 宗教の対価」
またニーチェは
代議制(
間接民主制)に批判的だ。ニーチェは
ナポレオンのような強い指導者を称揚しているから、「
無条件に命令を下す者の出現」が好ましいと考えている。
>他方では現在のヨーロッパの家畜的な人間たちは、[家畜的な人間であることが]人間に許された唯一のありかたであるかのようにふるまい、みずから従順で、おとなしく、家畜として役立つものになろうとする自分たちの特性こそが、ほんとうの意味で人間らしい美徳であると称揚するのである。こうした美徳とは、公共心、親切心、配慮、勤勉、節度、謙譲、寛容、同情などである。しかし指導者や先導する羊が不可欠であると思われる場合には、いまでは命令する者の代わりに、家畜のうちでも比較的賢明な人々を集めることに、あらゆる努力を重ねるのである。これがたとえば代議制を採用した政治体制の起源なのである。──「一九九 命令者の道徳的な偽善」
そもそもニーチェは
民主主義に批判的なのだ。なぜなら、「民主的な運動は、
キリスト教の運動をうけついだもの」だから。
今日の多くのヨーロッパ人が
善と考えているもの──顧慮、
同情、公正さ、温和さ、相互援助などは「家畜の群れの本能」にすぎない。
>──わたしたちが理解するかぎりでは、この道徳は人間の道徳のうちの一種にすぎず、これとならんで、その前にも後にも多数の道徳が、そして何よりももっと高い道徳がありうるはずであり、むしろ存在すべきである。しかしこの家畜の群れの道徳は、こうした「ありうるはず」と「べきである」にたいして、全力をもって抵抗する。そして頑固に、強情に言い張る。「わたしが道徳そのものである。わたしのほかに道徳なるものは存在しない!」と。──それだけではなく、ある宗教の力を借りて(この宗教は、もっとも崇高な家畜の群れの欲望の意のままになり、迎合するのである)、ついにはわたしたちの政治的および社会的な制度においても、この道徳の露骨な表現がみられるまでになったのである。すなわち民主的な運動は、キリスト教の運動をうけついだものなのだ。──「二〇二 家畜の群れの道徳」
>さらにこれらの輩は心を一つにして、同情の宗教を信奉する。そして感情をもち、生き、苦しむすべてのものに共感するのである(下は獣にまで、上は「神」にまで同情する。「神への同情」という途方もない逸脱は、民主主義の時代のものだ──)。──二〇二
ニーチェによると、古代ローマの最善の時代には同情による行為は善とも悪とも呼ばれなかったし、道徳と結びついてもいなかった。共同体の全体の利益と結びついたときには称賛されるわけだが、それでも不満げな軽蔑の念が混じっていた。
逆に人間にはいくつかの強い危険な欲動──冒険心、勇猛心、復讐欲、狡猾さ、略奪欲、支配欲などがある。それが公益に役立つということで大いに育成・促進されていた。
しかし次第に事態は逆転していった。
>しかし今やこうした欲動は二倍にも危険なものと感じられるようになってきた──今では捌け口がなくなってきたからだ──、そしてこれらの欲動は次第に不道徳なものという烙印を押され、誹謗の的とされるようになってきたのである。
>今では、これとは反対の欲動と傾向が道徳的なものとして尊敬されるようになった。家畜の群れの本能が一歩ずつ、その帰結を引きだすようになる。そして今では道徳的に評価されるのは、ある意見のうちに、ある状態や情動のうちに、ある意志のうちに、そしてある素質のうちに、公共にとって危険な要素が、平等を脅かす要素がどれほど多く、あるいは少なく含まれているかという遠近法によってである。ここでも恐怖が道徳の母胎となるのである。もしも最高で最強の欲動が、情熱に燃えて、家畜の群れの良心の水準と低さをはるかに凌駕する水準まで個人を遠く、高く駆り立てるようになると、共同体の自負心は崩壊することになり、共同体の大黒柱である自己信頼の念が砕けてしまう。だからこそ、こうした欲動には悪しきものという烙印を押され、誹謗の的となるのである。──「二〇一 家畜の群れの道徳命法」
今では、孤高で独立不羈の精神、ただ一人であろうとする意志、偉大なる理性までもが危険とみなされ、悪のレッテルを貼られる。
逆に、穏やかで順応的で平等思考の性向、欲望の
中庸が道徳的なものと呼ばれ、尊敬されるようになった。
こうして平安な状態にあって人々の感情を厳しく強固なものに鍛え上げる機会が失われていった。
さらにニーチェによると、家畜の群れは「水平化する者たち」だったが、彼らが「
人道主義」「
文明」「
進歩」と呼ぶもの、それは「ヨーロッパの
民主化の運動」と定義することができる。
>──現代のヨーロッパ人の良心を調べてみれば、数千もの道徳的な襞や隠れ家のうちに、同じ道徳命法を取りだすことだろう。これは家畜の群れの臆病な道徳命法、「われわれが望むのは、いつの日か、恐れるべきものがなくなることだ」である。未来のいつの日にか。そしてそこに向かう意志と道とが、現在のヨーロッパではどこでも「進歩」と呼ばれているのだ。──二〇一
そしてそれは「ヨーロッパの諸民族がみな同じような人々になりつつあるプロセス」である。
>この新たな条件のもとでは、均してみると均等で凡庸な人間が形成されるのである──有用で、勤勉で、さまざまな分野で役に立つ器用な家畜的な人間が作りだされる──。
>(中略) だからヨーロッパの民主化は、もっとも精密な意味での奴隷制度にふさわしい人間の類型を作りだすものとなろう。──「二四二 ヨーロッパの民主化の帰結」
しかし、この民主主義社会の中では極めて危険で魅惑的な例外的人物が作り出されることにもなる。それがニーチェの考察する民主化の帰結である。
>わたしが言いたいのは、このヨーロッパの民主化は同時に思いがけずも、暴君の育成のための準備となるということだ──すべての意味における、そしてもっとも精神的な意味における暴君を。
とはいえ、民主主義の中ではほとんどの人間は平均化するわけだから、それが浸透すると「人間全体が堕落すること」になる。
>人間の全体的な堕落。現在では社会主義を唱える愚か者や頓馬な者たちが、やがては「未来の人間」と──自分たちの理想と!──みなした人間にまで、堕落するかもしれないのである。──このように人間が完全な家畜にまで(あるいは彼らが主張するように、「自由社会」の人間にまで)堕落し矮小化することは、人間が平等な権利と要求をそなえた矮小な動物になることは、起こりうることである。それに疑問の余地はないのだ。この可能性を一度でも最後まで考え抜いた者であれば、ほかのどの人間も知らぬような吐き気を覚えるだろう。──おそらく同時に、新しい使命もだ!……