generated at
価値判断の区別の仕方に対する反論
「倫理学講話」において述べられている「絶対的価値判断」と「相対的価値判断」の区別の仕方に対する、ウィトゲンシュタイン『倫理学講話』をめぐっての「筆者」の反論

hr
本文
テニスの例の場合
テニスをしているBとそれを見たAが次のようなやりとりをしたとする
A「君のテニスのプレイは悪い」
B「そうだけど、もっとよくしようとは思わない」
A「それならそれでいい」
テニスの上手い下手に関する話の場合、Bに対して誰もがAと同じように答える──すなわち、Bに対して「もっとよくしようとするべきだ」とは言わない──とウィトゲンシュタインは考える(と「筆者」は解釈している)価値判断の区別の仕方に対する反論#61bde6b57427b70000bed17a
嘘をつく例の場合
(上の例と同様に)嘘をついたBとそれを見たAが次のようなやりとりをしたとする。
A「君が嘘をついたことは悪い」
B「そうだけど、もっとよくしようとは思わない」
A「君はもっとよくしようと思うべきだ」
嘘をつくことの是非に関する話の場合、Bに対して誰もがAと同じように答える──すなわち、Bに対して「もっとよくしようと思うべきだ」と言う──とウィトゲンシュタインは考える(と「筆者」は解釈している)。
上のような差異を用いて、「相対的価値判断」と「絶対的価値判断」を区別することができるとウィトゲンシュタインは考える。つまり、前者のAのように「それならそれでいい」とスルーできるような場合、その判断(ここでは「君のテニスのプレイは悪い」という判断)は「相対的価値判断」であり、後者のようにスルーできない場合、その判断(ここでは「君が嘘をついたことは悪い」という判断)は「絶対的価値判断」である。
hr
上のようなウィトゲンシュタインの区別の仕方に対して、「筆者」は疑問を述べる。
たとえば、テニスの例の場合、誰もがAのように「それならそれでいい」と答えるとは限らないだろうと反論する。たとえば、「熱狂的にテニスが好きな人であれば、『うまくなろうとは思わない』と言った途端に怒りだし、もっと上手になるための特訓の必要性を説くに違いない」と「筆者」は考える(cf. 第三回 「倫理学講話」読書会用メモ#615d4d7d7427b70000098adc)。
上と同様に、嘘をつく例の場合も、「嘘をつくことにそれほど罪悪感を感じない人」であれば、Bに対して「君はもっとよくしようと思うべきだ」とは思わないだろうと指摘する(cf. 第三回 「倫理学講話」読書会用メモ#615d4d7d7427b70000098ae5)。
以上のことから、ウィトゲンシュタインが行ったような区別はうまくいっていないと「筆者」は考える。

hr
メモ
ところで、上のA、Bのやりとりを「〜は悪い」という価値判断ではなく「〜はよい」という価値判断で作るとしたらどのように修正すればよいのだろうか?

hr
脚注
価値判断の区別の仕方に対する反論#61bde6417427b70000bed168:このように書くのは、ウィトゲンシュタインが「誰もが」Aと同じように答えるとは考えていないという解釈の余地があるように思われるからであるが、それについては別途書く予定 → 書いた:「筆者」の批判をかわすような解釈