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三島由紀夫はゴドーが来ないのを「けしからん」と言った
ちなみに三島由紀夫ゴドーが来ないのを「けしからん」と言っている(『源泉の感情』などに所収の安部公房との対談「二十世紀の文学」)。
『サド侯爵夫人』ではサドが帰って結末となる。ただし主人公ルネは夫であるサドに会わない。
サドは悪徳の美の世界を創りルネをそこに閉じこめた。しかし帰ってきたサドは醜く変わり果てていた。
ルネがサドに会おうとしなかったのはなぜか?
三島もベケットのように全体性を拒否しているのか、サドと会わないことが全体性への回帰なのか、考察する事が可能。

『ベケットとその仲間たち』のなかで(p113,114)対談が引用され、三島のベケットに対する無理解、として苦笑されているが、恐らくこのへんはまだ掘り下げられるはずである。なぜなら『サド侯爵夫人』を書いた三島がベケットの狙いとスタンスに無理解であった、というのは無理筋ではないか。無理解と容認しないことは異なる。また、しばしばパフォーマンス的な言動を行うMISHIMAの言葉を、そのままに受け取ることに対しては慎重になるべきだと思う。むしろ両者の作品に通底する/相反するテーマを読み取ることが面白そうだ。