なんでも許すのは「退廃」ではないか
根底にある規範
関連するページ
間違いを見つけたときに「間違ってますよ」と指摘できるのも、「間違ってますよ」と指摘することが許されている
環境ゆえにできることなのかな?と思いました。
これは重要な指摘だと思う

そのような「環境」はそもそも無いのではないか、と思いはじめている。それを許すとか許さないとかは、個々の言動……「指摘するな」という命令や手による制止……である。そういった個々の行為が繰り返されるのを目にした人が、その場全体がそのようなものであると把握したとすれば、それは
その人の心的習慣形成であって、やはり「環境」ではない。

以前と考え方が変わって、なんでも許すのはよくないとは思うようになった。ので、この記事には賛同する。
整理
間違いの指摘は不寛容である
不寛容に寛容な環境がある
この寛容な環境は健全である
この環境は何でも許す環境かもしれない
だが健全であるかもしれない