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『ドリアン・グレイの肖像』の教訓
オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』において、ドリアンの友人の画家によって描かれた肖像はドリアンのいわば分身であり、良心のメタファーとしての役割を果たしている。
そしてドリアンは彼の良心たる肖像にナイフを突き刺して死んでしまう。つまり、良心と刺し違えることで事切れたのだ。
解説の佐伯彰一は次のように書いている。
>自分の寝室の奥に秘め隠した彼の「肖像」は、一つ一つの悪事の度ごとに口辺のしわの数を正確にふやしていくのである。ただ一つの悪徳頽廃も見逃されない。
>(中略)
>「肖像」は、たとえ屋根裏部屋におしこめようと、彼自身の影のようにまといついて止まぬ。そして、結局のところ、彼の享楽も、悪徳も、一切の帳尻は、この肖像画においてつけられるのだ。「肖像」とは、ドリアンの‘alter ego'(もう一つの自分)であり、さらに敢えていえば、彼の良心に他ならない。(「良心」という言葉を使うのは作者自身だ)ドリアンが、いかに自由放胆な享楽家、感覚追求者をもって任じようとも、ついに内なる「良心」の支配から逃げ出すことは不可能である。(中略) そして、現実が芸術を支配するのではなく、実は作られた第二の自我、フィクショナルな自我の方が生ま身の人間を引きずり、ついに破滅に至らせる、というところに、ワイルドらしい逆説的な主張がこめられているには違いない。(中略) 少くともぼくの耳には、「良心」を無視し、否定しようと躍起になって大きな身振で努めながら、ついにはその当の相手(良心)と刺しちがえるを得なかった作者自身の悲鳴の如きものがはっきりと聞きとれたのである

読書メモと同じ内容だが、ワイルドはカトリックに改宗している。ここで『ドリアン・グレイの肖像』の好きなシーン#676124357ab6000000b5ddb2(懐疑主義こそは信仰のはじまり)の部分の意味がわかる。憶測だが、ワイルドはまずキリスト教を懐疑し、懐疑を通り越して理性によって再び信仰を獲得したのだろう。
事実、ワイルドの童話集を読むと、どれも宗教的な色彩が強い。
カトリックと世紀末芸術の関係の深さは指摘されているらしく、世紀末芸術はカトリック圏の国々から出てきたと言われている。また例えばワイルドの『サロメ』の挿絵で知られているビアズリーもカトリックに改宗している。
また良心を生き方の第一に据えると、あらゆるイデオロギーを徹底させることができなくなる可能性についてもいつか考えてみたいのでメモ(cf.イデオロギーから距離を置くということ)。
さらにリクトーさんの影と鏡像を学ぶのリストの中にワイルドのこの作品を含められるかもしれない?とも考えている。実際、肖像はドリアンの背後に影のように付き纏う。

また、佐伯彰一が比較として挙げているのがエドガー・アラン・ポー『ウィリアム・ウィルソン』
>この点に興味を覚えられた読者は、ポーの『ウィリアム・ウィルソン』あたりと読み比べるのも一興であろう。一見、純粋な審美派の説の中に、意外に根深く倫理性、宗教性が食い込んでいる場合が多いのだ