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『サド侯爵夫人』を読む(イ)

何度か読んだ印象……悪徳の怪物・美の権化・嗜虐機械のサド侯爵の存在によって、関係する女性たちが、言葉の鎧をまとっている話、に思えている。
丁寧に読みといていくときは、それぞれの鎧・仮面の裏に隠された感情や想いを探っていくとよさそう。
基調になっている感情は、「恐怖」だと思う。
自由」とかも大事そうだ。「情念」と「論理」みたいな。

演出について
野村萬斎が演出した舞台(蒼井優主演、白石加代子他出演、NHKで放送)のときは、言葉の呪縛に囚われた女たちの劇、として描いていた。よかった。というか始めてみたヴァージョン。
ベルイマンの演出、最後のほう、或る場面でうわあ~~~~わかってるねえ~~~~~となった。ヨーロッパで演じられるなら、そのようになるだろう。同時に、結末に「なるほど、そうやるのか」と思った。
個人的な話だが、この戯曲が面白すぎて、昔鉛筆で「架空のポスターの下書き」を書いたことがある。まだあるかな……。わりと気に入っている笑

どうやって「魅力的な恐怖を振り切るか」という劇だとおもうなあ。でもあくまで「女性の劇」だと三島が言っているのは、男性は危険な魅力に追突して破滅することが美だ、あるいは義務だ、と思っているからだとおもう。これは『わが友ヒットラー』で追求されている(個人的にはこっちのほうが興味あるかもしれない)。
『サド侯爵夫人』は、暴力的なひととのつきあいを切れない人は、読んでみるといいかもしれない。親切な劇。
キリスト教、とくにカトリック的な倫理観と人間の実存の織りなすドラマだと思う。
読んでみて損はない!

いま読書会やるといいのは、これなんじゃないかなア

作中の疑問点




同時にこれは、サドのような徹底した思想とどう付き合っていくか?という男性的実存の裁判でもある。え?女性劇なのに?これは基本的な私の日本文学の見方なのだが、物語上の女性というのは、時代の心(あるいは深層心理)を顕していることが多い……。でも、思想に付き合うのは女性もありえるでしょう。もちろんそうだが、男性というのは特に空っぽであるので、思想を導入するということは非常に危険なのだ。その思想を中心に、簡単に組織化しうる。まあ、それが男性のサガでもあるのだが……。