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「完全な自叙伝など存在しない」

第11章の冒頭では、語り手の思考が混乱しているのか「地下室万歳!」と書いたのをすぐ「地下室なんぞ糞くらえ!」と撤回する。
>結局のところ、諸君、何もしないのがいちばんいいのだ! 意識的な惰性がいちばん! だから、地下室万歳! というわけである。ぼくは正常な人間を見ると、腸が煮えくり返るような羨望を感ずると言ったけれど、現にぼくが目にしているような状態のままでは、正常な人間になりたいとはつゆ思わない(そのくせ、ぼくは彼らを羨むことをやめるわけではない。いや、いや、地下室のほうがすくなくとも有利なのだ!)。そこでなら、すくなくとも……えい! ここまできて、まだをつこうというのか! 噓というのは、いちばんよいのはけっして地下室ではなくて、ぼくが渇望していながら、けっして見出せない何か別のものだということを、二二が四ほどにはっきり知っているからだ! 地下室なんぞ糞くらえ!

語り手は自分の書いていることが何一つ信じられない。自分が嘘をついているという感覚を拭いさることができない。
そして語り手は「人間の思い出には親友にしか打ち明けられないものがある。いや親友にすら打ち明けられず自分自身にしか、いや自分自身にすら打ち明けられないものが多々あって、きちんとした人ほどそうしたことが多い」と述べる。そして次のように語る。
>しかし、たんに思い出すだけでなく、書きとめようとさえ決心したいまとなっては、せめて自分自身に対してぐらい、完全に裸になりきれるものか、真実のすべてを恐れずにいられるものか、ぜひともそれを試してみたいと思う。ついでにいっておくが、ハイネは、正確な自叙伝なんてまずありっこない、人間は自分自身のことではかならず噓をつくものだ、と言っている。彼の意見によると、たとえばルソーはその懺悔録のなかで、徹頭徹尾、自己中傷をやっているし、見栄から計画的な噓までついている、ということだ。ぼくはハイネが正しいと思う。ぼくにはよくわかるつもりだが、ときには、ただただ虚栄のためだけに、やりもしないいくつもの犯罪をやったように言いふらすこともあるものだ。それから、これがどういう種類の虚栄であるかも、ちゃんと心得ているつもりだ。しかし、ハイネが問題にしたのは、公衆の面前で懺悔した人間のことである。
これは多分、「私」というものが多面的だからではないかという気がする。その場その場の状況や、話し相手が親しい人か目上の人かなど対人関係の違いによっても、その都度、異なる「私」が立ち現れる、平野啓一郎が言うところの分人のようなものだからなのかもとちょっと思った。

それはさておき、人間は見栄だったり自分に嘘をついて、自分でも思ってもみないことを平気で書いたりするものだから完全な自叙伝というものはありえない。
だとすれば、私小説エッセイにおいても語り手が語ることがまったくの真実であるとは限らないのかもしれない。→虚構による真実の誕生