空観の記号論理学的解明
面白そう、今スマホなので後でPCで見る
👀
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分量はそんなに多くない
記号論理まわりは、ざっと見た感じ複雑なことはしてなさそうなので読みやすそう
仏教周りの用語に馴染みがないときついかも
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は馴染みがないので、すぐには読めなさそう
いつ発行された論文だろうか
1954か
自分のScrapboxからこっちに持ってきた
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この論文は、中村元氏による「空観の記号論理学的解明」と題された研究論文です。主な内容は以下の通りです:
1. 従来の
伝統的論理学ではなく、現代の
記号論理学を用いて仏教、特に中観派の空の思想を解明しようとする試みです。
2. 記号論理学を適用することで、従来は非論理的と見なされていた
中観派の論理が、実は論理的に矛盾していない場合があることを示しています。
3.
龍樹の『
中論』などの議論を記号論理学の式で表現し直すことで、その論理構造を明確にしています。
4.
四句分別などの仏教独特の論理も記号論理学的に解釈を試みていますが、完全には説明しきれない部分があることも指摘しています。
5. 「空」(śūnya)を数学的な「ゼロ」と同一視できるかという問題を提起し、今後の課題としています。
6. この研究は、仏教思想と現代論理学を結びつけようとする先駆的な試みであり、両者の対話の可能性を示唆しています。
論文は、仏教論理と西洋論理の比較研究に新たな視点を提供し、仏教思想の論理的側面に光を当てようとする意欲的な研究であると言えます。
仏教論理学を形式論理学ではなく記号論理学で記述してみる
伝統的論理学の立場から見るとインド論理学が不斉合であるように見えるが、記号論理学の立場から見るとそれは不斉合なのではなく伝統的論理学が無用な規則を固執していた
概念は常に主格
かの山は火を有するものなり
ここに火あり
「火」が「ここにあり」
インド論理学
「ここに」が主語
伝統的論理学
火、ここにあり 包摂判断
ここに、火あり 存在判断
-a+b=1
a < b
>前者の式の表示する意味は「あらゆるものはaならざるものかまたはbである」といふことである。
\neg A \vee B = \Omegaということ
a-b=0
A \wedge \neg B = \emptysetということ
ab = a
A \wedge B = Aということ
この記号の用法がよくわからない
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わかった!加筆した
現代風の書き方にする上で集合風に書くか論理式風に書くかは迷うな
>All a is b: a \subset b; ab = a; a - b = 0.
A \subset B; A \cap B = A; A\cap\overline B=\emptyset.ということ
これは同じことを3通りに表現しているんだな
>No a is b: a\subset -a; a-b= a; ab = 0.
a\subset -a??typo?

AIもtypoという意見
a\subset -bだね
A \subset \overline B; A \cap \overline B = A; A\cap B=\emptyset.ということ
>Some a is b: a-b \neq a; ab\neq 0.
A \cap \overline B \neq A; A\cap B \neq \emptyset.ということ
>Some a is not b: ab\neq a; a-b \neq 0.
A \cap B \neq A; A\cap \overline B \neq \emptyset.ということ
特称命題
(x).\phi x.\subset (\exist x).\phi x
\phi a.\phi b.\phi c. \cdots\cdots: \subset \phi a \vee \phi b \vee \phi c \cdots\cdots.
えっ、
\subsetがその位置にくるのこの記号の意味の意味は今の
\subset ではなかったりする?
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これらの式を現代的なTeXで表現し、解説いたします。
(\forall x)\phi(x) \implies (\exists x)\phi(x)
意味: すべての x について φ(x) が真であるならば、少なくとも1つの x について φ(x) が真である。
解説: これは
全称量化子から
存在量化子への推論を表す基本的な論理規則です。「すべて」が成り立つなら「少なくとも1つ」も必ず成り立ちます。
\phi(a) \wedge \phi(b) \wedge \phi(c) \wedge \cdots \implies \phi(a) \vee \phi(b) \vee \phi(c) \vee \cdots
意味: φ(a), φ(b), φ(c), ... のすべてが真であるならば、φ(a) または φ(b) または φ(c) または ... が真である。
解説: これは論理的含意関係を示しています。連言(AND)から選言(OR)への推論を表しています。すべての命題が真であれば、そのうちの少なくとも1つ(実際にはすべて)が真であることを意味します。
>EIO ab=0.\quad bc\neq 0.\quad a-c\neq 0
A \cap B = \emptyset, \quad B \cap C \neq \emptyset, \quad A \cap \overline C \neq \emptyset
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EIOは伝統的な論理学で使用される四つの命題形式(A, E, I, O)のうちの3つを指します。
E: 全称否定(No A is B)
I: 特称肯定(Some A is B)
O: 特称否定(Some A is not B)
この式は、これら3つの命題形式を集合論的に表現しています:
A \cap B = \emptysetAとBの交わりがない(E: No A is B)
B \cap C \neq \emptyset BとCの交わりがある(I: Some B is C)
A \cap \overline C \neq \emptyset: AにあってCにないものがある(O: Some A is not C)
これらの式は、伝統的な論理学の命題形式を集合論的に解釈し、現代的な記号論理学で表現したものです。
特称判断が存在判断の形式を取るのは非論理的ではない
この辺の話が「日本語は主語を省略する!あいまい!」という欧米からの見え方に対する反論になるのではないかと考えている
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つまり主語を省略しない言語の人たちが言語の制約によって特定の思考に限定されており、それゆえに主語を省略する言語の人たちの会話の一部を理解できないのではないか、ということ
(\exist x).\phi(x).\equiv.\sim (x) . \sim \phi x
equivとsimはどういうこと?
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simみたいなやつは否定、equivはそのまま同値の意味
(\exists x)\phi(x) \equiv \neg(\forall x)\neg\phi(x)意味:「ある x が存在して φ(x) が真である」ことは、「すべての x について φ(x) が偽である」の否定と等価である。
解説:
(\exists x)\phi(x) は存在量化子を使用し、「ある x が存在して φ(x) が真である」ことを表します。
\neg(\forall x)\neg\phi(x) は全称量化子の否定を使用しています。
(\forall x)\neg\phi(x) は「すべての x について φ(x) は偽である」という意味です。
その全体を否定することで、「すべての x について φ(x) が偽であるわけではない」という意味になります。
\equiv は論理的等価性を表します。
この式は量化子の双対性を示す重要な定理の一つです。存在量化と全称量化の関係を表現しており、一方を他方で定義できることを示しています。
これらは論理的には同じ内容を表現しています。
>ところでアリストテレースから護して西洋中世に完成された傳統的論理學に診いては、前者のみが扱はれてゐた。後者は前者のやうな全禰肯定到断(A)に書き換へられるか、さもなくば假言到箇のかたちに書き換へられねばならなかつた。
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この部分について、現代の記号論理学の表記を用いて説明いたします。
全称肯定判断 (A):(\forall x)(Sx \rightarrow Px)"すべての S は P である"
仮言判断:(\forall x)(Sx \rightarrow Px)"もし x が S ならば、x は P である"
存在判断: (\exists x)(Sx \wedge Px) "ある S である x が存在し、それは P である"
アリストテレス以来の伝統的論理学では、主に全称肯定判断 (A) の形式が扱われていました。存在判断や特殊な関係を表す判断は、全称肯定判断か仮言判断に書き換えられることが多かったのです。
例えば、"ある S は P である" という存在判断は、伝統的には以下のように書き換えられることがありました:
全称肯定判断として:
(\forall x)((Sx \wedge (\exists y)(Sy \wedge Py)) \rightarrow Px)
"S であり、かつ P である S が存在するような全ての x について、x は P である"
仮言判断として:
(\forall x)(Sx \rightarrow (\exists y)(Sy \wedge Py))
"もし x が S ならば、P である S が存在する"
これらの書き換えは、存在判断を直接扱うことができない伝統的論理学の制限を回避するための方法でした。
しかし、現代の記号論理学では、存在判断を (\exists x)(Sx \wedge Px) のように直接表現できるため、このような複雑な書き換えは不要になりました。
\psi\alpha
\phi\alpha
(x)\phi x . \supset \psi x .
\phi \alpha . \supset \psi \alpha.
(x).\phi x.\supset \psi x : \phi \alpha.\supset \psi \alpha
(ラツセルのいふ theory of apparent variables)
この
(x)ってのは今で言うところの
\forall xなのかな
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Claudeはそうだっていってた
伝統的論理学では
三段論法が使われ、5項目のこちらを冗長と見做していた
しかしインドではこの5項目から、三段論法ではなく、ラッセルのtheory of apparent variablesに進んだ
ここに\simとか \supsetとかの当時の用法も書いてあった
そもそも全称量化子自体が1900年前後の割と新しい概念なのか
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Theory of apparent variables(見かけの変数の理論):
これはバートランド・ラッセルが提唱した論理学の概念で、量化子(∀や∃)によって束縛された変数を扱う理論です。「見かけの変数」とは、量化子によって束縛された変数のことを指します。
この文章に出てくる各数式を現代的な記法のTeXと併記してその意味を解説して
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はい、喜んで解説いたします。この論文で使用されている記号論理学の表記と、現代的なTeX記法、そしてその意味を併記して説明します。
アリストテレースの推理SaM. MaP.\supset SaP
現代的なTeX記法: (∀x)(Sx → Mx), (∀x)(Mx → Px) \vdash (∀x)(Sx → Px)
意味: すべてのSはMである。すべてのMはPである。ゆえに、すべてのSはPである。(三段論法)
なるほど、そういうことね
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インドの論理(x).\phi x \supset \psi x : \phi \alpha : \supset \psi \alpha
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現代的なTeX表記:
(\forall x)(\phi(x) \rightarrow \psi(x)) : \phi(\alpha) \rightarrow \psi(\alpha)
この式は次のように解釈できます:
(\forall x)(\phi(x) \rightarrow \psi(x)): すべての x について、φ(x) ならば ψ(x) である
\phi(\alpha): ある特定の α について φ(α) が成り立つ
\rightarrow \psi(\alpha): それならば、その同じ α について ψ(α) が成り立つ
つまり、この式全体は次のことを表しています:
「すべての x について φ(x) ならば ψ(x) が成り立つという一般則があり、ある特定の α について φ(α) が成り立つならば、その α について ψ(α) も成り立つ」
この式は、一般則(全称量化された命題)から特定の事例への適用を表現しており、ラッセルの「見かけの変数の理論」の応用例と言えます。全称量化された x と特定の α の関係を示しており、量化子で束縛された変数(x)と自由変数(α)の使い方を示しています。
はー、なるほど。「見かけの変数」を使うことで三段論法をこんな風に表現できるようになったと言うことか
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具体的な事物に対応してない「見かけの変数」を使う思考、僕は元々プログラミングで使ってたので違和感なく受け入れてたが、
中村 元にとってはこの論文が書かれる40年前にできた「新しい数学」だったんだな
第二章
縁起説: \forall(x, y) xRy \rightarrow \neg(x = y) . \neg(x\neq y)
プール: x(1-x)=x-x^2=x-x=0
シュレーダー: a(-a) = 0 = -aa
当時の論理学: \sim(p.\sim p)
今の表現: \neg(p \wedge \neg p)
>シュレーダーの論理代藪學によると、aがaであつてしかも無であるならば、aは無である。
a\times 0 = 0
お?なんか変なことを言い出したぞ?
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>すでに去つたものと未だ去らざるものとを離れて、「いま去りつゝあるもの」といふ他の第三の世路の種類をわれわれは認めない。
a + -a = 1
いや、どうだろそれ
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ここから龍樹の空の議論がアリストテレス的にはNGな推論方法だけど、論理代数学的にはOKな推論だよね、という話をしている
四句分別の論理に関しては、論理代数学的にもおかしい
>サーンキヤ學派が矛盾律乃至排中律の原則を固執するのに対して、佛教はそれとは異つた思惟を容認してゐるのである。
空の原語がゼロの意味だからといって論理代数学の0と同一視したのは根拠レスだよねと批判してから、空を0として良いと思う理由を述べている
ただ、それでも論理代数学で空論の全てが表現できるわけではないので、論理学の拡張が必要かもしれないな〜という話をして終わっている
ver.1の断片
(x)sxUyx=3s:Uys.
現代的なTeX記法: (\forall x)(φx \rightarrow ψx) \Rightarrow (φs \rightarrow ψs)
意味: すべてのxについて、φxならばψxである。これは、特定のsについて、φsならばψsであることを意味する。
a+Ia=1
現代的なTeX記法: a + \neg a = 1
意味: aと非aの和集合は全体集合(または真)である。(
排中律)
ab=1 1(aσ)=-1
現代的なTeX記法: a \wedge b = 1, \neg(a \vee \neg b) = 0
意味: aとbの両方が真である。そして、aまたは非bでないことは偽である。
ab+ab+-ab+-a-b=1
現代的なTeX記法: ab + a\neg b + \neg ab + \neg a\neg b = 1
意味: aとb、aと非b、非aとb、非aと非bのすべての可能な組み合わせの和は全体集合(または真)である。
これらの式は、論理学や集合論の基本的な概念を表現しており、中村元氏が仏教論理学と西洋論理学を比較分析する際に使用しています。
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なるほど、
ab で積集合なわけか(確かに積である)
a-bが「a and (not b)」なのは初見ではわからなかったw
差集合の記法で使うことがよくある
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p.228後半
アリストテレスの伝統的論理学では誤りだが、論理代数学では誤りでない推論方法を龍樹が使っている
>アリストテレース以來の論 理學の立場から見て誤謬とされるものが、論理代藪學を適用すると 何故に誤謬とされないのかそれはシュレーダーの論理代歎學が眞 儒の實質内容をともなつた二値論的立場をとつてゐるからである。
なるほど、一応最後まで読んだ
前半の方、記法がよくわかってなくて意味不明だったけどだんだんわかってきた、それほど突拍子もないことは言ってない
読み直してver.2を作ってみる