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カントにおけるアプリオリの概念
>カントにおける「アプリオリ」の概念
> 「わたしは何を知ることができるか」「わたしは何をなすべきか」を問い、自然や人間を認識する「理性」(理論理性)の限界を明らかにするために批判哲学を打ち立てた18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントカントは、哲学もまた数学や自然科学にならって、必然的で普遍的な思考方法を獲得しなければならないと主張した。そして、そのためには、人間のあらゆる経験から独立して、理性自身が認識のわく組みを決めることができなければならない、とした。これが「アプリオリな認識」である(アプリオリな認識のうち、経験的なものをまったく混入していない認識を「純粋認識」と呼ぶ [2]
経験から全く独立した認識ってなんなんだろ
ホモサピエンスの脳のフィルターを介さずに…こう…cFQ2f7LRuLYP
ロックジョン・ロックが「人間に生得観念はない」(タブラ・ラサ)と主張したことに対する反対?nishio
> カントによれば、時間および空間はアプリオリな概念である。なぜならこの2つは、あらゆる経験的認識に先立って認識されている概念だからである [注釈 1]
> この2つが先立っていることが絶対的に自明なのではなく、カントが強調しているのは、この2つが与えられなければ、「物自体」が認識できない以上、純粋直観としては何も認識できないということである。
> なお、この2つは自然に想像される時間あるいは空間ではなく、形式的なそれである。感覚的には太陽が地球を回っているように「感じられる」としても、実際にはそうではないという比喩をカント自身も援用していることから、ある新しい「構成」のために、それらは純粋直観にあたえられるのである [注釈 2]
>この場合、経験・感覚等を捨象することにより、地球が太陽を周回しているという綜合的判断が得られる。
>この空間は、物理空間に先立つ(=アプリオリな)空間である。純粋直観が不可能であればヒューム的懐疑に陥るという懸念にも留意されたい。