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自分のことを貶すのは社会的責任を損なっている
どういうロジックか
自分の何らかの特徴(だと本人が思いこんでいること)を理由に「自分には生きる価値がない」などと発言する
文章による公開でも同じ
もちろん、他者に対して「○○なヤツだから生きる価値なし」とかは言わないし言ったら論外もいいところなのだが
こういうこと言っちゃうやつについては議論しない
ここで自身に何らかの劣等感情を抱いているひとが「自分には生きる価値がない」という文言をみた場合、どういう感情を抱くだろうか?
たとえそれがその人に対して放たれた発言でなくとも、負の感情のスパイラルをさらに加速させてしまうのではないだろうか?
2022-04-13 05:52:42 例を使った説明になっている
例は下で書いているので、ここでは例なしでもっとわかりやすく説明したい

書いてて自分でもピンとこないので、別な例を出してみる
ある人が、何らかのコンテストに出場したものの、本戦で惨敗し、「自分は何の努力もできないどうしようもないやつだ。生きている価値なんてない」とつぶやいたとする
では、これをコンテストへの出場権すらとれなかった人が見たら、どう思うだろうか?
「この『こんなのでは生きている価値がない』と言った人より遙かに劣っている自分はいったい何なのだろうか」
takkerの身近な例も一つ作ってみるか
takkerは現在休学している。そのことについて、内心どうしても「周りの大学生は日々専門科目を学び、実験を積み重ね、試験勉強も乗り越えて成長しているのに、毎日ただご飯を食べて入浴して適当にアニメ見てprogramを書き散らして眠るだけの生活をしている自分は本当に■■だ」と思ってしまうことがあった
今もときどきそうか
ではもしそうならたとえば中学高校で不登校になって十数年間引きこもりになってしまった人や、うまく社会に適用できなかった人、がんばって社会復帰しようとしている最中の人はなんだというのだろうか?
他人のことはたとえどんな状態であっても尊重すべきだが、自分のことならいくらでも貶してもいいと?そんな壊れた理屈が通るとでも?
仮に無理矢理通したとしても、その自分へ向けた中傷は、同じ境遇にいるほかの人たちのことも傷つけている
なぜならそれは自分そのものを貶しているのではなく、自分の行動・性格・能力を貶しているのだから
ある程度共通する行動・性格・能力を持っていて悩んでいる人に対しても適用されしまう
いや、それはそうなんだけど、
矛盾しない。自分の行為と自分とを同一視して貶している
他の人の例
vim-jpで拾ってきた。vim-jpは偉大

何人たりとも、その能力や性格の是非によらずに尊重すべし、という(たぶんそんな感じだったはず)「基本的人権」が重要であることと、このページで述べていることとは何かしらの共通点があるような気がしてならない

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2022-04-21 08:08:07 この主張を無条件に肯定するのはまずいと思うようになった
あとでちゃんと書きたい

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