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言語はなぜ哲学の問題になるのか 序文 読解

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目次
序文
日本語版への序文 ――言語観の転換はいつ生じたのか――
1章 「戦略」

序文

日本語版への序文――言語観の転換はいつ生じたのか――

本書は1972年から1973年にかけて書かれた
> 本書は1972年から1973年にかけて書かれたが、それは最初は特定の聴講者に向けて読み上げられたものである。
> 本書はケンブリッジ大学の若い哲学研究者たちに対して講義された。
> 当時、ケンブリッジには、それまで70年にわたって彼の地を特徴づけてきた哲学における分析的、言語論的伝統に対して、かなり懐疑的な風潮が強まっていた。
> 我々は別の伝統からもっと多くを学ぶべきではないのか、あるいはむしろ別の学派に忠誠を誓うべきではないのか、と自問していた。
> この『言語はなぜ哲学の問題になるのか』もそうした風潮の一例であるともいえる。なぜなら、私がこれらの原稿を書いたときに、ミシェル・フーコーの熱心な読者であったからである。

時代遅れになっていない理由
> こうした特殊な時期に書かれ、そして多少なりとも特異なトピックの選択によって構成されているので、この本は想像されるほど時代遅れになっていない
原典は1975年、日本語版は1989年に出版されている
> 私は英語で読んだり研究したりしている哲学者たちによってなされた言語に関する反省について一つの体系的な展望を与えようとしたのではない。もしそうした試みを行ったのであれば、今日、これらの解釈を修正し、私の解釈に対して提出された反論をも挙げなければならないであろう。
> 私の企ては、私自身の個人的な見解を示すことにあったのであって、その点で本書は一つの特定の時点における個人的なヴィジョンとして、書かれた通りのままでいまも通るのではないかと考える。

本書に横たわる一つの恐ろしいギャップ(二世紀間の飛び越え)について
> この序文において、本書をアップデートすることとは全く別のことをしてみたい。
> それはむしろ昔の時代への逆戻りと言うべきものかもしれない。
> この本はほぼ時代順に書かれているが、そこには一つの恐ろしいギャップが存在している。それは「パート A」と「パート B」の間、「観念の全盛期」と「意味の全盛期」の間にあるギャップである。
> これらの間には非常に長い期間に対する飛躍 ーー二世紀間の飛び越えーー が存在する。
> 私は喜んで19世紀ドイツの偉大な論理学者ゴットロープ・フレーゲのところまでジャンプしたのである。

この飛躍の中で生じている、言語についての概念上の巨大な転換について
>

end