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百代の過客
はくたいのかかく
scene 01
> 月日というものは、永遠の時間を旅する旅人みたいなもので、やって来ては去っていく年月も、やはり旅人のようなものなのだ。
2017/03/20
> 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」目次を書き出したけど、読まないで、「百代の過客・続」を読了した。明治維新から大正まで。網野善彦サンは現在を十四世紀以来の価値観の大きな変化の時代だって言っていたけども、明治維新以降の日本が今、まさに終わろうとしているのを、「百代の過客・続」で感じた。ドナルド・キーン、カッコイイ。続けて「百代の過客」読む。平安時代から江戸時代。
> それから「論語 増補版 全訳注」もちょっとづつ読み進めてて、マクニールにも11世紀の中国に関して論語(というか儒教)の記述があって、なぜか今は渋沢栄一の「論語と算盤」を読んでいる。止まってる「百代の過客」の始めの方にも渋沢栄一の航西日記について載ってて、なんか因果を感じる(というか勝手に全部繋げているんだけど)。
> さて、わたしたちは残念ながら毎日の中でその日に起きた事柄や湧き上がった感情や考えたことのどれがその後重要な鍵になるか見極めることは不可能だ。例えるなら真冬から少しだけ春に近づいた日々に木々の色合いがわずかに変化する様子をその日一日だけで見極めることが出来ないということ。数ヶ月の後に見比べたなら明らかに季節の変化は木々の色を変えるけども毎日の中でそれを知るのは困難だ。小学生のころアサガオの絵日記の宿題があった。毎日その様子を絵に描くのだが、毎日にそんなに変化はない。子供心にもそれだと面白くないと思ったのか少しずつデフォルメして描いていた。気がついたときには実際のアサガオより絵日記のアサガオの方が大きく成長した。そういうものだ。
> おくのほそ道、松尾芭蕉に同行した曽良の日記が残っている。曽良随行日記と呼ばれている。書かれているのはどこそこの誰々とあった、何を食べた、どこそこの角を曲がりどこそこから何里の進んだ、というものだ。そこにはなにも面白いことはない。普通に日記を書くということはそういうことになるのだろう。自分自身の三年日記を読んでいるように感じた。正岡子規の仰臥漫録や夏目漱石の修善寺日記などというのはごく普通のわれわれには書けない。百代の過客でキーンは大抵の日記は実に退屈で面白い日記はだいたいにおいて書き直されている。脚色されていると言っていた。
2016~2017
>@taizooo: 百代の過客、いきなり続編からなのは、別に間違ったわけじゃないです。
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2023
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