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対話について
from 2022/10
対話について


> を読んで、で、オーケー、よくわかった、ところで「対話」とはいったいなんなのか? ということで、
> を掘っていたら、こんなイイやつを見つけたのでリリースします。それでは御覧ください
> まとめると陳腐になりますが、
> 鷲田清一さんのいう「対話」とは「ともにいる」ことを指していて、「分かりあえない」「伝わらない」「理解しえない」のはあたりまえだということを受け入れてそれでもなお「ともにいる」ための 対話の可能性 を示しているようです
> 意見が合うとか、理解し合えるとか、エコーチャンバーとか、フィルターバブルとかそういうことから比べると、断然世界が開けるような、それでいて深く絶望の淵に落ちていくような、不思議な感触がありました
> 私からは、以上です

もともと プラグマティズム を発見したのは 鷲田清一民主主義のつくり方 についての書評を読んだからだった
因果は巡る

> コンテンツを詰めた麻袋を武器に河川敷で殴り合ってるイメージ(もちろん無言で)
> そういう文化への理解と、技術的なバックボーン
> 書き換えられる側の痛みだけではなくて、書きかえる側の痛みの話と、その痛みを前提としたコミュニケーションの形
分かりあえないことを前提とした対話、自分には経験があったんだった


対話についての続き その1
以下の2つを読むと、
以下で触れられている 鷲田清一 さんが言ったとされている「対話が終わったときに自分が変わる」ということの射程の長さが、イメージと全然違っている
相手の意見を受け入れるとか、自分の意見を受け入れさせるとか、そういったレベルでのやりとりを指すのではない
合意とか合一といった実質をともなうものではない
他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない
一致よりも不一致、それを思い知ること
語りあえば語りあうほど他人と自分との違いがより繊細に分かるようになること
これはつまり、「対話が成立しない状況」をも含み得るということだ
おそらくロシアとウクライナの戦争に垣間見えるそういう状況でさえも
機能不全と指摘されている国連の安全保障理事会で行われている状況さえも
我彼の間に、自他の間に、絶望的な断絶を見出したとしても、そうであっても、そういう過程を経ることによって自分は変わるのだ、というそういう
変化の種は蒔かれる
そういう変化が形を現すまでにかかる時間さえも受容するという
関係あるかもないかも


対話についての続き その2
>会話」がシンフォニーを志向するなら、「対話」はポリフォニーを重視するのである。
ミハイル・バフチンのポリフォニー論


対話についての続き その3
オープンダイアローグ という考え方があるそうだ
統合失調症のケア手法
「開かれた対話」
1対1ではないということ
オープンダイアローグにはモノローグ的コミュニケーション、ダイアローグ的コミュニケーションの両方があるが(バランスを崩さなければ全体の1/3をモノローグ的コミュニケーションが占める場合があるととのこと)
ここでの「モノローグ的コミュニケーション」は、「モノローグ的な言説」とは異なる、とある
「モノローグ的コミュニケーション」は、会話のトピックを導入すること、情報収集や助言すること、その他の参加者が述べた内容に立脚しない新しい話し合いの主題を導入することなどが含まれる
「モノローグ的な言説」は制度的な話し方を表していて、そこには特権も持ったトップダウン型の話し手(専門家)がいるが会話に寄与する聞き手がいない
〈ダイアローグ的〉言説 vs〈モノローグ的〉言説は、〈ウィズネス思考〉[~と一緒に考えること]vs〈アバウトネス思考〉[~について考えること]と置き換えられる
withness vs aboutness
「一緒に考えること」と「それについて考えること」
「結論を出すと対話は終わってしまいます。対話というプロセスを続けていくことを何より大切にします」
対話を続けることに主眼が置かれる
議論と対話は異なるものである
教育や対人援助の場では,対象を見きわめ特定し,分類する知(aboutness knowing)だけでなく,対象がどうあるのかをいっしょに探る知(withness knowing)の両者が必要である。
aboutness knowing vs withness knowing
「見きわめ特定し分類する知」と「いっしょに探る知」
ここでまたミハイル・バフチンが登場する